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つかさの頭の中

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「あくまでも、人口の推移という発想からの勝手な理屈である」
 といえるが、ありえない発想ではない。
 言われてみれば、昔の天皇の中には、
「150歳まで生きた」
 と言われている人もいるではないか。
 さらにギリシャ神話などになると、神というものが、人間の具現化だという発想になれば、
「神に死という概念がない」
 ということと、
「神の子孫が、人間となる」
 ということもあることから、日本でも、
「神の国」
 と言われていることから、ありえる発想なのではないだろうか。
 死後の世界の発想として、まだまだ、考えられることはあるだろう。何しろ、世界にはたくさんの宗教が乱立しているわけで、中には、元から別れた宗教というのもあるだろう。
 そんな宗教のそれぞれに、それぞれ独自の、
「死後の世界」
 というものがあるだろう。
 元が同じ宗教だとしても、死後の世界の発想が同じだとは限らない。
 この死後の世界という発想が、派生する形で生まれてきて、そこから派閥が生まれ、別の宗教に変わってしまったという流れを汲んでいる場合だってあるだろう。
 そう考えれば、中には、
「宗教のその考え方だけで、うまくいっている」
 という発想だってあることだろう。
 つかさは、
「人口の増減」
 という発想から、死後の世界について考えてみたが、彼女は、このような発想をすることが多い女の子だった。
 しばしば、
「君は変わった発想をする子だけ」
 と言われてきた。
 特に、担任の先生などから言われてきたが、つかさは、あまりよろこんでいなかった。
 それは、
「変わった発想」
 と言われるのが嫌だというわけではなく、他の、
「中二病」
 と言われる人と同じレベルに見られるのが嫌だったのだ。
 いわゆる、
「思春期に見られる、背伸びしがちな発想」
 というのが、つかさには嫌だったのだ。
 自分は背伸びしたいわけではなく、皆の、
「間違った発想をただしたい」
 というわけでもない。
 ただ、
「自分の発想が、他の人とは違うということを分かってほしい」
 という発想であり、その発想が、見方によっては、中二病のように、背伸びした発想に見られてしまうことを懸念していたのだ。
「どうすれば、中二病と差別化できるだろうか?」
 と考える。
 差別化したいと思うほど、中二病というもの、いや、自分が背伸びしているということを、まわりに思われたくないという感覚が強かったのだ。
 夢に対しての思い入れが大きいのも、その一つなのかも知れない。
 夢の中で過去のことを考えていると、
「確かに、前世の出来事のように感じる」
 と思ったことがあった。
 しかし、そんな日に限って、中二病と思えるようなクラスメイトが、まるで図ったかのように、
「夢で見た」
 といって話す内容が、何やら自分が見た夢と酷似しているような気がしていたからだった。
 ただ、これは、つかさの思い込みで、
「自分が見たわけではないのに、あたかも見てきたかのように喋っている中二病と思しき同級生」
 その人の言い分が、前の日に見た自分の夢と酷似しているかのように思える。
 しかし、それはあくまでも、デジャブのようなものであり、実際に似た夢であっても同じであるわけはないという感覚から、つかさ自身が、まわりの影響を受けやすいタイプなのかと思うと、余計に、中二病のような、背伸びしたいと思っている連中のペースに引き込まれるということに、自分自身で、嫌悪を感じるということになるのだろう。
 それを思うと、
「中二病の連中を盾にして、自虐的な感じを受けてしまうのではないだろうか?」
 と考えてしまう自分を、情けなくも思うのだった。

                 吊り橋の途中

 つかさは、中学生になってから、それまで考えていなかったのだが、急に、
「小説を書いてみたい」
 と思うようになった。
 まわりの友達は、小説というよりも、マンガを描くことに興味を持ち、描くことやデッサンから入っている子が多かった。
 しかし、つかさも、デッサンは嫌いではなかったのだが、そこから生まれてくるのは、独自の発想であり、
「この発想は、絵画ではなく、文章だ」
 と感じるようになった。
 デッサンというものが、
「目の前にあるものを、忠実に描く」
 ということだと思っているせいか、自分のオリジナルキャラクターを描くことができなくなっていたのだ。
 しかし、自分の中で描きたいのは、オリジナルであり、ストーリーがオリジナルであるのだから、それに伴う絵も、オリジナルであるべきだと考えるようになると、自分の描きたいと感じていることは、やはり、
「絵ではなく、文なのだ」
 と感じるようになった。
 実際に、そう考えていると、
「マンガ家が描いている絵は、皆オリジナルなようで、そのジャンルの中で、皆同じに見えてくる」
 と感じたことで、マンガというものを見る気がしなくなったのだ。
 本当はそうではないのだろうが、目の前に見える人の作画に、オリジナリティを感じないせいか、ストーリー展開まで、オリジナリティを感じなくなったのだった。
 それを思うと、だんだん自分が、マンガから遠ざかっているのを感じた。
 それも、
「マンガというものは、最初だけは関わってもいいが、長くなればなるほど、自分の中で後悔が芽生えてくるような気がする」
 というものだった。
「要するに、時間を掛ければ掛けるほど、先の実のために使いたいという時間がおろそかになる」
 ということをしたくない。
「若いくせに、そんな年寄りみたいな考え方をするんじゃない」
 と苦言を呈する人がいるかも知れないが、たいていそういう人は、年配の人が多い。
 ということは、自分が本来なら踏んできた後悔をさせたくないと思うのだろうが、逆に、その後悔をしたくないと思っている、しっかりとした考えを持っている人の邪魔をしたくなるのだろう。
 そういう人は、当然一定数いるに違いない。
 人間には欲があり、妬みも共存している。
 欲が叶わなかった場合、叶えようとしている人を見ると、そこに、
「自分の考えが間違ってはいなかったということを自分で納得したいため、いや、そういう言い訳を作りたいがために、人の邪魔をする」
 という考えに至るだろう。
 だから、これから時間を大切にしようと思っている人の邪魔をしたいと思うのだろうが、それは、本末転倒だといってもいいだろう。
 結果、
「因果応報」
 という言葉で跳ね返ってきて、そこに残ってしまうという発想から、ついついというべきか、意識して、人の邪魔をしてしまうということになってしまう。
 しかし、一つ言えることは、
「その年配の人だって、人の邪魔をすることを考える暇があったら、自分のための努力をすればいいというわけで、人間は、死ぬまで自分がいつ死ぬかということが分からないのだ」
 ということである。
 もちろん、ある程度の年齢になり、実際に肉体的な衰えを感じるようになると、
「時間というものを大切にする」
 のであろう。
 それは、
「自分が年齢を重ねてきた」
 ということもあるだろう。
 しかし、時代の流れというのもあったのかも知れない。
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次