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つかさの頭の中

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 ということが分かるからだ。
 そうなると、錯覚の世界というものを、自分の中で納得させようとして、入り込んでしまった袋小路からは逃れられないと思うのだ。
 これは、そう感じさせようという意識があるからだというもので、辻褄を合せようとすることで、自分の正当性を示したいのだろう。
 しかし、どちらも潜在意識の中に、
「記憶としてではなく、意識として残っている」
 というもので、物心がつくさらに前の意識に関しては、
「意識にも記憶にも残っていない」
 ということで、潜在意識が見せるものである、夢ではないのだとすると、
「何を見せられているというのか?」
 ということであり、考えて出てきた答えとして、
「前世の記憶」
 というものではないかということだった。
 つまりは、
「前世の記憶ということでしか、理解できないものだ」
 ということで、意識ではない辻褄合わせとして、
「抜け殻のような記憶」
 といってもいいのではないだろうか?
 前世というものが、意識でも記憶でもないところに格納されているのだとすると、そこにあるのは、
「パンドラの匣」
 であり、
「決して、開けてはいけないものだ」
 ということになるであろう。
 そんな前世の記憶を、見ることができるとすれば、それは夢でしかないだろう。
 しかし、夢というのが意識の中で見るものだということなので、意識の中に前世の記憶が残っていたことになる。
 ということは、
「死後の世界で、記憶というものは、すべて消されたものではないということになるのだろうか?」
 そもそも、前世という概念は宗教における。
「輪廻転生」
 という発想から来るもので、転生することは、自然界の摂理であるところの、循環という意識によるものともいえる。
 そう考えると、
「世の中のものは、すべてが循環で成り立っている」
 と言えるだろう。
 逆にいえば、一つの循環が存在すれば、他のもの、自分のまわりにその循環が影響し、まわりのものも循環すると考えるのはおかしいだろうか。
 いや、そのことは、きっとみんなが無意識に思っていて、その感情が、循環というものを自然に受け入れる感覚になるのではないだろうか。
 宗教的な発想として、死後の世界を4つに分けるというのを聞いたことがある。
「上二つが、神様になるというもので、三つ目が人間に生まれ変わるというもので、一番の最低部分は、地獄ということで、生まれ変われるものは、人間以外のものだと」
 という。
 つまり、この発想には、一つ大きなものがある。もちろん、一つ一つが重要な意味を持っているのだろうが、ここでいう地獄が、最低部分にあるということで、それは、
「天国と地獄」
 という発想からでも、分割する世界が2つと4つの違いだけで、地獄は最低でしかないということである。
 そして、重要なのが、世界を4つに分けた時、地獄に行ってしまうと、
「人間には生まれ変われない」
 ということである。
 ということは、ここでいう最下部にあたる地獄にいけば、人間以外にしか生まれ変わることができないということであれば、
「人間だけが特別で、それ以外の動物はすべてが、人間未満だ」
 ということである。
 死後の世界が、天国と地獄しかないという発想の時、地獄に行ってしまうと、
「輪廻すらできない」
 ということになる。
「再生のない苦痛が永遠に続く」
 ということであった。
 つまり、
「輪廻は人間以外のものに生まれ変わることはない」
 という発想である。
 もっといえば、
「前世と同じ種類のものにしか生まれ変わることができないのか?」
 という発想であるが、そもそも、宗教というものが、人間世界のものなので、4つの世界における
「人間以外のものに生まれ変わる」
 という発想はそもそもがおかしいのではないだろうか?
 だから、
「地獄に落ちたのだから、それだけ悪いことをしたということで、生まれ変わるなら、人間以外の下等動物に生まれ変わる」
 という、発想からすれば、完全に、
「人間至上主義だ」
 と言えるだろう。
 人間は、無意識にも意識の中にも、
「生物の中で一番高等なものは、人間だ」
 ということになるだろう。
 あくまでも、人間は、無双な存在という発想であり、
「人間は人間にしか生まれ変わることができない」
 という発想の方がシンプルであるが、そうなると、生まれ変わることができない。輪廻のできない人が増えるということであり、それを考えると、その時代時代で、
「前世を持たない、いわゆる輪廻をまだ繰り返していない人間の存在がなければ、人間の数は、減る一方だ」
 という発想になるだろう。
 実際に、世界の人口は減るどころか増えていた時代があった。
 それよりも、人間は誰かが作った、つまりは、聖書でいうところの、
「アダムとイブ」
 日本における神話の世界である、
「イザナギ・イザナミ」
 であっても、元は、
「二人の人間だった」
 ということであり、そこから、どんどん繁殖していくことで、人がどんどん増えていった。
 ということであり、最初に生まれた人たちは、ほとんど皆、
「前世を持っていない」
 ということになる、だとすれば、生まれ変わりが基本なのだとすると、人が死んでいくにつれて、下手をすれば、人口が減っていくということになる。すべての人が、地獄にいくことなく人間に生まれ変わったとしても、そこにあるのは、
「人間の数に、増減がない」
 ということである。
 そうなると、今度は根本的なところで違っているといえるのではないだろうか?
 つまりは、生まれ変わりがあり、人間が減らないということになるのであれば、
「死後の世界」
 という発想が根底から崩れてくるのではないか?
 ということだ。
 つまりは、
「死後の世界なるものが存在し、地獄とそれ以外の世界に別れることで、輪廻の際、地獄に落ちてしまうと、間違っても、人間として再生されることがない」
 という理屈であれば、
「死後の世界というのは、存在しない」
 ともいえるだろう、
 つまり、
「死んだ人間が、魂だけになり、幽体離脱のように、元の人間の身体から分離した魂は、肉体を求めてさまよっていると、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊を見つけ、そこに魂が、入り込むのではないか?」
 という発想である。
 だから、そこには、天国も地獄もない。再生するために行く死後の世界は存在しないと考える方が、人口というものを考えた時、理屈に合っているのではないだろうか。
 もし、死んだ魂が、生まれてきた魂よりも少なかった場合は、生まれ変わりになる魂が入り込んでくれなかったということで、
「死産」
 ということになるのではないか?
 と考えると、これも、辻褄としては合っているのではないかと考えられるのではないだろうか?
 逆に、本当に死後の世界が存在しているということであれば、
「人数が減らない」
 ということへの対策として、
「人間という生命がこの世に生まれてきた、いわゆる創世期というのは、死という概念がなく、ある程度の人が増えてくるまでは、最初に生まれた人は生き続けたのではないか?」
 という発想もある。
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次