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つかさの頭の中

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「夢の中の辻褄合わせなのではないか?」
 と言えるのではないだろうか。

                 死後の世界の発想

 夢の中の辻褄合わせという発想は今に始まったことではない。
 辻褄を合せるということは、
「むしろ夢ではなく、リアルな考えを持っているから見る夢だってある」
 と言えるのではないだろうか。
 つまりは、
「夢を見る見ない」
 という発想は、今の時代いであれば、科学の発展によって、夢の大まかなメカニズムであったり、夢を見る理由付けも分かっているのかも知れない。
「夢というのは、脳波の動きや、電流によるものが影響して見せているものだ」
 と聞いたことがあった。
 夢というのは、一般的に言われていることと、稀に違う意識を持っている人がいるのも事実だが、ここで主人公の、飯塚つかさという女の子が見るものは、
「その中の稀な部分」
 ということだといってもいいのっではないだろうか?
 もちろん、毎回同じだとは限らず、
「稀なことは、やはり稀にしか起こらない」
 ということであった。
 例えばであるが、
「夢を見ている時は、視覚として現れるだけで、他のものを感じることはまれである」
 というのも、色や味、そして匂いなど感じていない」
 というのが普通だと思うが、たまに、目が覚めてから、
「赤いブレスレットをしていた」
 あるいは、
「アルコールのような臭いを感じた」
 などということを、目が覚めてから、感じていたということを後追いで感じているような時があった。
 というのも、冷静になって考えると、
「赤いブレスレット」
 というのは、いつもしているのが、意識の中に残っていたからだ。
 さらには、アルコールの臭いがしたというのは、
「その人の職業が医者だ」
 ということを夢の中で意識したことで、
「ああ、いつも感じていることが夢で反映されたからだ」
 ということを感じるのだった。
 だから、これも、
「潜在意識の域を出ることはない」
 という考えに追従しているということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「視覚以外の感覚を自らで感じているというのは、現実世界からリンクしている潜在意識があるからで、だからこそ、
「意識に限界というのか、結界を感じさせるのが、潜在意識として感じていることで、自らに限界を与えてしまっているからではないか?」
 と感じさせるのであった。
 そんな夢でさらに、感じるのは、
「夢を見ている時は、自分で夢を見ているという意識はなく、目が覚めてから、あれが夢だったのだと思わせることだ」
 というものであった。
 見た夢というものは、確かに夢を見ているという意識はない。だから、ギャグマンガなどに書かれていることとして、一度、
「面白いと感じたもの」
 があったのだが、
 それは、
「不眠症に罹って、眠れないという夢を見ている」
 というものであった、
 ここだけでは、何が言いたいのか分かりえない人がいるかも知れないが、要するに、
「眠れないといって苦しんでいるのが、眠っている時に見る夢だ」
 という、まるで、
「マトリョシカ人形」
 のような発想えある。
「蓋になった人形の蓋の部分を開けると、そこからまた人形が姿を現し、そこを開けるとまた蓋が……」
 というものであった。
 まるで、
「入れ子になったかのような状態であり、
「眠れないという夢を見ている」
 というのは、まさに、
「蓋を開けると、そこにはまた蓋が入っていた」
 というものだったのだ。
 実際の人形では、そこまでのことはないだろうが、夢のような意識であれば、
「単純に繰り返している」
 という現象ではないことが見えてくる。
 それは、きっと、真横から見ることができるからだろう。
 少しでも浮き沈みがあったり、その先に見えるものが、螺旋階段のように、上向きか下向きになっているということを意識すると、
「一度向いた方向を、一度向き始めた向きを変えることはない」
 と言えるだろう。
 これは夢にも言えることであり、
「螺旋階段とは、目的地が最初から決まっていないといけない」
 というもので、俄かのように人気にあやかろうとするもののように、群衆によってつくられた方角を、勝手に自分の都合よく癇癪するのは、間違っているだろうといえるだろうか。
 だから余計に、夢のような曖昧のものは、その状態を意識させるというもので、解決策として、
「曖昧なのだから、最後まで曖昧を貫くか?」
 と考えるか、
「曖昧さというものが実際とは、切っても切り離せないということ、本当に自分に自信がないというだけで、醸し出されるものなのか?」
 ということで、曖昧さというものを現実として理解しようとするには、曖昧さという言葉は、
「夢と同一なのだ」
 として考えることが必要だということになるのだろう。
 だが、たまに、夢を見ている時、
「あっ、これは夢なんだ」
 と意識することがあるはずなのである。
 なぜなら、夢の中で、
「夢だから」
 ということで、空を飛ぼうとする時、
「いや、待てよ。夢だからといって、いきなり危険なことになるのは、実に恐ろしい」
 そこで考えられるのが、前章で考えた、
「特撮ヒーローの話」
 だったのである。
 あれこそ、
「パーキンソンの法則」
 と言われる都合よく、最後は辻褄を合せようとする発想に、似通っているといってもいいのではないだろうか。
 つかさは、よく、目が覚めてから、
「たえず夢を見ている中の、どれかを思い出そうとしている」
 と考えてしまうのだ。
 だから、そこには時系列というものは存在しない。
 といってもここでいう時系列というのは、実際の時間の時系列という意味ではなく、夢に見ているその内容の時系列である。
 夢なのだから、何も時系列に沿って形成されるものではないということを、自覚しているといってもいいのだが、冷静に考えると、
「同一の夢であれば、時系列は、実は存在していて、見る人が勝手に組み立てている」
 と考えると。
「現実世界は、その本人、あるいは本人以外が影響しているくせに、そのメカニズムがあるわけではない」
 と言えるだろう。
 そういう意味では、
「人間の潜在意識が作り出したという夢の世界では、あくまでも、都合のいいものが一番影響しているのだろうが、その中で、誰が夢の世界を作ったのか?」
 ということが、考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていきそうな気がするのは、
「螺旋階段上の負のスパイラルが存在し、都合がよく、曖昧だという辻褄合わせのような発想だ」
 と考えられるのではないだろうか?
 最近のつかさは、
「自分の見ている夢の中で、これは本当に自分の夢なのだろうか?」
 と考える時がある。
 夢の中で、自分が意識している時系列とは明らかに違っていて、
「物心がつく前に、まるで大人だったという意識が残っている気がする」
 という意識であった。
 そんな時、
「ああ、これって、人生の意識なのかしら?」
 と考えてしまうことがある。
 時系列に関しては、
「確かに中学時代の方が、小学生時代よりも、遠い記憶に感じられる」
 と思うのが、
「ここが明らかに錯覚の世界だ」
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次