小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

つかさの頭の中

INDEX|16ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

 のように、設定で期間を決めて、その間ずっと入っていたものは、期間を過ぎると完全に削除されるというような使い方のもの。
 あるいは、
「現世でも、意識を介さずにすぐに記憶に封印するものもある、それは、意識をしないが、意識の材料として使われたものではないか」
 という考え方からではないだろうか?
 それと、今まで書いてきた、
「前世が存在するとすれば、その記憶」
 という意味での、ダイレクトな記憶という、数種類の考え方である。
 そんな記憶の中で、夢だと思う感覚としては、
「目が覚めるにしたがって、覚えていたはずの、色や臭い、味を忘れてしまっているのではないか?」
 と感じたからであった。
 確かに、
「夢というものでは、五感を感じているということはない」
 という話もあるが、自分の中では、色を見ているから、覚えている感覚というのもあったりした。
「五感を感じることが、恐怖に繋がることもある」
 ともいえるだろう。
 というのも、
「明るい色だと安心感が得られ、色が暗くなるにつれて、不安が募ってくる」
 あるいは、
「一般的に、人間が苦しいと感じるような臭いであれば、それが、恐怖を募らせて、それが不安へといざなう」
 と考えれば、そこに恐怖心まで湧き上がってくれば、不安感と恐怖の板挟みになることだってあるだろう。
 そういう意味で、
「色や臭いが恐怖を煽る」
 ということが一般的に言われていることだと思った。
 しかし、逆に、
「モノクロ」
 と言われるシーンの方が恐怖を感じることがある。
 それは、カラーになると、実際のシーンとのリアルさが増しては来るが、逆に、リアルすぎるせいで、その部分をどこかぼかすような映像テクニックが使われる。
 しかし、モノクロであれば、色がついていない分、勝手な想像が視聴者に求められ、
「リアルな映像よりも、さらにリアルさを醸し出すというような状況になってくる」
 という感覚があるのだ。
 だから、昔の、モノクロ映像のシーンでは、今から思えば、脆弱な特撮シーンではあるが、その脆弱さゆえに、必死に恐怖を煽ろうとするのは、今のような、リアルさを少しでも、打ち消そうとしている考えとは逆をいっているため、それだけ、想像力を掻き立てるというものであった。
 だから、夢の中でいかに色がついていたとしても、明るかったとしても、夢だと考えた時点で、次第に五感で感じたものが、
「夢であった」
 と感じるのだ。
 その時、一緒に忘れていく感覚が、再度思い出すために、どうすればいいのか? ということを、想像させるのだった。
 それが、夢というものを、記憶として封印しようとするのか、それとも、意識の中に解き放とうとするのか? ということに繋がるのだろう。
 意識として解き放とうとするのであれば、恐怖心をあおるものを、意識の中に入れてはおきたくない。できれば、楽しい記憶として残しておきたいと考えるであろう。
 そう考えると、
「怖い夢だけは、思い出したくないので、記憶の奥に封印しようとするから、夢を別次元で見たものだと感じている頭の中では、記憶こそが夢で覚えているとすれば、格納されるべき空間なのだ」
 と感じるに違いない。
 ということを考えていると、
「夢をいかに夢の通りに思い出そうとするのか?」
 ということを考えると、
「その夢の種類がどんな夢であったのか?」
 ということを考えないといけない。
 夢の種類といっても、覚えているのは、
「怖い夢」
 であり、しかも、怖いという感覚がどこからくるのかというと、
「もう一人の自分」
 という種類の恐怖であれば、思い出すために、苦労がなくとも思い出せるのだった。
 そう思うと、思い出せる夢が、
「記憶の封印」
 であるとすれば、それ以外に見ているかも知れないと思う夢は、本当にすべてが、
「意識することによって、作られる夢の世界だ」
 と言えるのかどうかということが問題だったのだ。

                 目が慣れてくる

 記憶と意識という感覚の中で、簡単に思い出せる夢というのが、
「記憶の封印」
 だということになると、
「意識よりも記憶の封印の方が、感覚として覚えているかどうかということは、思い出すまでに近い」
 と言えるのではないだろうか?
 そんなこを考えていると、
「記憶と意識の間に、どんな違いがあるのだろう?」
 ということを考える。
 その時に、一つ閃いたこととしては、
「明るさなのではないか?」
 ということであった。
 明るさというものの中には、色を意識させるものがほとんどだ。
 暗い色、明るい色、つまりは、明るさというものは、そんな色のスペクタクルに影響していくものではないかということであった。
 いわゆる、画素数と呼ばれるようなものが存在し、そこに、どれだけの数のまるで細胞のような細かいものがあるか、
「光のパズル」
 とでもいえばいいのか、明るさをコントロールするのが、目の奥にあるものなのだろうか?
 そんなことを考えていると、目を瞑っている間に見るものだから、瞼の裏に映し出されたスクリーンが、実際に見ている、
「夢というものだ」
 ということになるのだろう。
 夢を見ているということが分かると、その先にあるものが、何であるか、分かってくることであろう。
 夢の最初が、明るかったのか、暗かったのか、そして、終わりも、明るいのか、暗いのか、そして、明るさが途中で変わるのか? などということも、
「明るさ」
 ということ一つだけを取っても、どのように違っているのかということを考えることがいかに大切かということが分かるというものであった。
 最初が明るく、次第に暗くなってくるとすると、瞼の裏に、明るい色が残っていることになる、
 その明るさが残像となって、意識に影響してくるのではないだろうか? 明るさが、精神状態を表しているのだとすれば、
「明るい時が、躁状態に近く、暗い時が、鬱状態に近い」
 と言えるのではないだろうか_
 もっとも、
「躁状態が明るく、鬱状態が暗い」
 と言い切れるのかどうかということは、何とも言えない。
 実際に、明るさだけで、精神状態を表すことはできるかも知れないが、感情を表すことはできないであろう。
 いや、感情を表すのであれば、感情に至るまでの過程を明るさで表したとすれば、行き着いた先を、明るさで表すことはできても、それが感情なのだということを、誰が証明するというのだろうか?
 そんなことを考えていれば、
「夢の世界には、精神状態に関係のない感情が存在するのではないか?」
 と感じられたのだ。
 確かに、
「夢の世界に感情というものが存在するのだろうか?」
 ということを考えていいものかと感じるのだった。
「夢の世界というものは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」
 と、つかさは感じていた。
 だから、完全に目が覚めて、意識がハッキリした時点で、夢の内容は忘れられると思っていたことから、
「目が覚めてしまうと、夢は思い出すことができない」
 と感じるのであった。
 だが、果たしてそうなのだろうか?
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次