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つかさの頭の中

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 というだけの人は、映画を見るわけではないので、その人たちまで、プレイベントの効果の指標としてカウントしてしまうと、厄介なことになる。
 しかし、結果として出てきた、
「映画の興行収入」
 というものがすべてなのである。
 それでも、CDなどは売れるだろう、
 今度は、映画とは関係のない人が、CDだけを目当てに買うという人もいるわけで、そこは、プレイベントを行ったことで、寄ってきた別目的の一定数と、こちらも映画には関係はないが、音楽として純粋に楽しむという人の人数を比べた時、大差がないということであれば、映画のヒットのバロメーターに、目に見えている、映画の興行収入だけで見てしまうと、見失ってしまうというものを、関連グッズの売り上げまでひっくるめた額を提示しないと不公平になるというものだった。
 そんなことを考えていると、
「ものの成果であったり、周りからの評価というものは、目に見えているものだけで判断しきれないものがある」
 といってもいいだろう。
 正直、目の前にあるものだけを見ていては、肝心なものを見失ってしまうということを、その夢が言いたいのだとすれば、
「夢というものの正体が、どういうものなのか?」
 ということを見失ってしまうかのように思えてくるのだった、
 つまり、
「橋の上から見た自分」
 あるいは、
「橋の下から見た自分」
 どちらを先に感じたのか?
 ということが、
「ある意味重要なのではないか?」
 と考える。
 だが、実際には、
「前に進むか、後ろに下がるか?」
 ということが、この場面では重要で、
 後になってから、大きな意味を持つのは、上としたの自分の関係なのかも知れないが、その時に、自分が考えなければいけないのは、
「前に進むか、後戻りするのか」
 ということであった。
 逆にいえば、
「どちらにも動かない」
 という選択肢があるのか?
 ということであった。
 つかさには、その選択肢はなかった。
「前に進むか、後ずさりをするか?」
 ということしかないのは、
「橋の上では、何も生まれない」
 ということが分かっていたからである。
 そのことを自覚するには、何を隠そう、下から見ている自分の観察があったればこそである。
「下の自分が上の自分を見つめている」
 ということは、
「どちらかに進むということを示唆しているというものであり、だからこそ上にいても、下を確認することができるのであり、上の自分の自覚がなければ、いくら下の自分が自覚しているということを感じていたとしても、自覚に至ったかどうか、分からないということなのであろう」
 と考えるのであった。
 そんなことを考えていると、
 つかさには、
「前に進むか、後ろに下がるかの二択しかなかった」
 のである、
 じっとそのままでいれば、いずれ、橋が自分の重みに耐えられなくなり、橋の綱が切れて、谷底に真っ逆さまに落ちていくということを自覚していたのであろう。
 それは、実際に落ちる感覚が芽生えていることで、将来の選択肢の一つであることは分かっていた。
 しかも、あくまでも、一つの確率というだけのことで、それ以上を創造することができないのは、単純に比較対象として用いるだけのものだということを自覚していたからなのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「橋の上にいる自分が、気が付けば、また橋を渡る前の瞬間に戻っている」
 というのを感じたのだ。
 その時、反射的に、下にいる自分を見ると、
「そこにいたはずの自分がいないことにビックリし、さらに、ホッとした気分になっている」
 ということを感じさせられた。
 そこにいなかったkとでホッとするという感覚は、
「やはり夢だったんだ」
 ということで、すべてを終わらせようとしている自分の存在に気づくからなのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「百里の道を進む時、九十九里をもって半ばとす」
 という言葉を思い出させた。
 これは、油断を制するという意味での言葉なのだろうか?
 それとも、もっと他に意味があるというのだろうか?
 いろいろなことを考えてみたが、果たして、どれが本当のことなのかということを考えさせられるのであった。
 一番気になったのは、後ろを振り返った時、自分が歩いてきたと感じていた長さよりも、想像以上に長かったと感じた時だった。
 それは、完全な想定外のことであったということもあってか、今度は前を向いた時、進んできたはずの距離がまるでリセットされたかのように、
「最初、橋の入り口で見た光景とまったく同じに感じた」
 というほどだったのだ。
 しかも、たった数分前のことのはずなのに、遠い過去のように思えたのがさらに、不思議なことだった。
「そうだ、昔の記憶だったんだ」
 という思いであった。
 それが果たして、
「デジャブ」
 のような、最初から自分の中にあった意識というものである感覚なのか、それとも、
「前世の記憶」
 ということで、
「自分が感じたことがある」
 というような意識ではなく、ただ、自分の記憶の中に封印されていたものがよみがえったというような感覚なのかということであった。
 本当は、
「自分の意識の中のことであってほしい」
 と考えていたが、どうもそういうことではないようだった。
 というのも、この感覚が、
「自分が経験したとして意識できるまで、落とし込めているわけではなく、無意識に身体の中に宿っている記憶として、封印までされているものがよみがえったという感覚だったのだ」
 そうでなければ、
「前世」
 という発想にはならない。
 前述のように、前世として意識することができるかどうかすら、分からないからだ。
 あくまでも、
「意識ではなく記憶」
 ということであり、その奥に潜んでいる記憶を呼び起こしたものがあるとすれば、それは、意識の中で、
「前世というもの、そのものを、否定しようとする自分がいる」
 というのが、意識であり、
「記憶が決して意識に戻ることはない」
 と思っているのは、
「自分の中にある前世の記憶というものを、意識として結びつけて、感覚で思い出すことはできない」
 と考えていいるからだった。
「記憶というものは、意識として作用するかしないか?」
 というのは、あくまでも、
「前世というものを、意識として復活することができない」
 という大前提を元に考えたからであった。
 そんなことを考えていると、
「意識と、記憶というものの違い」
 ということを考えた時。
「なるほど、記憶というものを、前世というものだと考えたとすると、一応の納得に感じられるものがある」
 といっても過言ではないだろう。
 だが、記憶というものすべてが、
「前世のものだ」
 と言えるだろうか。
 記憶というものも、決して一枚岩ではないと考えると、記憶というものには、
「消してもいいものと消してはいけないもの」
 の二種類があるのではないか?
 と考えるのだった。
 というのも、
「現世で意識を一度はしたが、それを間違っているという感覚になったからか、記憶に封印してしまうこともあるだろう」
 つまりは、パソコンでいうところの、
「ゴミ箱」
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次