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つかさの頭の中

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 それを見ながら、ふと下にいる人物を見た。上から下を見下ろすのだから、とても小さく見えるのだろうが、その時は、そこまで小さく感じなかったのは、そこにいた人物を確認させるために、大きく見せたのだろうと思われたのだ。
 その人物の顔を見ていると、
「ああ、あれは、私ではないか?」
 と感じたのだ。
 最初は、それを見て、
「あれは、私だ」
 とすぐに気づいたわけではない。
 だから、気付いてからすぐは、いろいろな発想が瞬時に頭の中を巡ったのではないかと感じたのだ。
「これは夢ではないか?」
 あるいは、
「あの人は、私のドッペルゲンガーではないか?」
 あるいは、
「次の瞬間、瞬時にして視線が、下にいる自分に移ってしまうのではないか?」
 とまるで、自分の発想が、
「客観的にみてしまうという感覚なのではないだろうか?」
 ということであった。
 そんな中において、その思いがどれが最初で、どれくらいの感覚だったのか分からないというのは、
「夢の中だからだろうか?」
 と感じたが、
「夢の中であれば、もう一人の自分がいるとしても、それは不思議なことではない」
 という思い、
「では、橋の下から、こちらを見ていると感じたとの人物が、本当に自分だと思ったのは、
「見たことでそう感じたのか、そう感じたから、そう見えたのか」
 ということであるが、これが夢であるということになれば、前者のように思えるが、逆に夢を見たと思わせるという何かの力であれば、後者のような気がする。
 発想が、堂々巡りを繰り返していて、その思いが、どこまでなのかということを考えると、
「前に進むべきか、後ろに戻るべきかということを考えた時、絶対に来た道を戻るべきである」
 と言い切れないものを感じた。
 というのが、下から見上げている自分のいる位置から見える自分の橋の上での位置は、明らかに、ゴールの近くまで来ていたのだ。
「ここまで来ているのであれば、前に進んで、そのまま突っ切れば事なきを得る」
 と考えられる。
 しかし、実際に、橋の上にいる自分にとっては、前も後ろも同じ距離であった。
 そこで、この錯覚を考えた時、
「橋の上の方が錯覚なのではないか?」
 と考えた。
 極限の恐怖を味わっているのは、下から見上げている自分ではなく、上にいる本人であった。 しかも感じる恐怖は、自分に冷静さを取り戻させるように感じられたのであった。
 というのは、
「恐怖というのは、感じるものなのか、感じさせられているものなのだろうか?」
 ということを感じるからであった。
 というのも、恐怖というものを、まだ、14歳くらいのつかさが、どれほど味わったことがあるかということであった。
 つかさ本人は、自分の中で、
「まだまだ子供だ」
 とう意識があり、その中に、
「本当の恐怖は、大人になってから味わうものだ」
 と感じていたのだ。
 もっといえば、
「子供の頃に感じる恐怖というのはまやかしであり、これが夢だとすれば、まるで、正夢のようなものではないか?」
 と考えた。
 実に都合よく考えているのだが、それこそが、
「つり橋の上の自分ではないか?」
 と感じたのだ。
「確かに、戻ることの方が、君子危うきに近寄らずということで、最初からなかったことにできる」
 というものだが、途中でやめて、後ずさりをしようものなら、
「果たして戻ってきた場所というのは、本当にその場所だったのか?」
 ということである。
 人間の記憶は曖昧なもので、テレビ番組を見ていても、その主題歌が毎回流れてくるのだが、
「果たして、何度目にすべてを覚えることができるか?」
 と考えることがある。
 実際にドラマが、3回で完結するようなものだったら、覚えていることもないと思ってしまう。
 一話だけの完結もの。つまり映画のようなものだったとすれば、とても記憶など不可能に違いないと思うのだ。
 だとすれば、せっかくの主題歌なのに、覚えてもらえないということになるが、どっこい、そういうことでもない。
 その映画が流行って、テレビで放送されるようになったり、配信やDVDの発売などがあり、知名度が上がってくると、主題歌が他でも流れたり、主題歌自体も売れて、こしらも、CD販売や配信ランキング上位ということになると、
「人気映画の主題歌」
 ということで、主題歌だけが一人歩きをする可能性だったあるのだった。
 映画が流行ることで、副産物が生まれることは往々にしてあるが、それは、可能性としては低いだろう。
 年間に、数本がいいところで、よほど、有名俳優を使ったり、脚本家が有名で、その名前で客が来るかということであろう。
 ただ、一番は、ビジュアル的な、
「イケメン俳優」
 を使い、そのための、プレ演出としてのイベントの興行もその一つとして、売れるかどうかの指標となるだろう。
 しかし、
「それがすべて」
 というわけでもない、
 あまりにも、プレ演出が、想像以上の効果を生み出すことができたとすれば、人間というもの、欲が出てくるもので、ついつい、
「捕らぬ狸の皮算用」
 をしてしまうことであろう。
 実際の映画の興行収入は、前評判におぼつかないことも多いだろう。
 しかし、だからといって、
「プレイベントが悪かった」
 というわけでもない。
 何しろ、地元が、
「町おこし」
 ということで、普段からそんなに注目されないところなのに、ブームとなりそうなものに飛びつき、街を上げての大イベントとして、
「映画とのコラボ」
 というようにしてしまえば、それが、映画会社との作戦勝ちということになりかねないだろう。
 実際に、その街で毎年行われているイベントと、主人公である、イケメンが、
「映画とのコラボでやってくる」
 ということになると、街は大騒ぎになっているということを宣伝として流せば、ミーハーと呼ばれる人間が、こぞって押し寄せることだろう。
 そのイケメンのファンはもちろん、元々、毎年このイベントを楽しみにしている人たちの人手、さらには、
「イケメンも関係ない。イベントにも興味があるわけではないが、ただ旅行のついでに、賑やかなところを見てみたい」
 という、その言葉すら、欺瞞に聞こえるほどの一定数いるだろう。
 そんな連中には、大義名分は関係ない、
「ただ、その場所にいた」
 というだけのことが、その人にとってのトレンドになるというものだ。
 つまり、そういう場面一つ一つが、積み重ねとなり、ある程度の数に達すると、初めて、
「こういうイベントに数多く参加してきました」
 ということで、
「人間としての拍がつく」
 と考えている人もいるということだろう。
 だから、すべての人が、
「皆そうだ」
 と考えているわけではないだろう。
 ただ、
「本人がそういうのだから」
 ということで、それこそ、
「本人主導の趣味ということで、大きな口を叩かせてもらう」
 ということになるのであろう。
 さて、映画の興行は、プレイベントほどの任期ではなかったということは、
「映画などどうでもよく、ただ、イベントに参加できる」
 あるいは、
「その場にいるだけで、トレンドなのだ」
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次