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つかさの頭の中

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 と言えるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「人間社会において、女性という存在がどういうものなのか?」
 ということを考えさせられる。
 今の時代であれば、
「女性差別だ」
 ということになるのだろうが、それを言われ出したのは、本当につい最近ではないだろうか?
「いや、実際には昔からいわれてきた問題であり、少しずつ差別がなくなっていったというのも事実だろう」
 と言える。
 しかし、差別が行われていたのは、何も、
「男女の問題」
 だけではない。
 人種差別などというものも大きかった。
 そもそも、人間は、昔から、
「奴隷制度」
 というものが存在し、戦争を行い、
「勝利した国が、敗北した国の人民を奴隷化する」
 というのは、当たり前に行われていた。
 きっと、
「弱肉強食」
 という考え方が、当然のごとくに存在していた時代のことであろう。
 差別問題というのは、そういう意味で今に始まったことではない。むしろ昔であれば、
「当たり前のこと」
 のようになっていて、その時に迫害されていた人たちが、いかに感じていたのかということをはかり知ることはできない。
 もちろん、奴隷解放が行われた時は、喜んだに違いないが、果たして全員そうだったのかということになると何とも言えない。
 人によっては、
「迫害を受けていたが、黙っていうことさえ聞いていれば、生きていくことを真剣に考える必要などない」
 ともいえるだろう。
 もし、奴隷解放というのを、例えば、聖書の中にあった、
「モーゼ」
 という人物に導かれ、行われたのが、
「事実だった」
 ということだと考えた時、
 彼らの中には、
「モーゼこそ、自分たちを惑わす者だ」
 といっていた人もいるという。
 しかし、彼らは、モーセに逆らったことで滅びることになり、モーゼは奴隷たちをエジプトから解放し、
「聖なる土地」
 へといざなったとされるが、その時、モーゼの立場としては、
「自分は神の使いである」
 というような存在だったのだろう。
 だから、その時、奴隷たちは、有無もいわさず、
「自分たちが、雇い主である連中から独立して生きていくのは、解放されたとはいえ、難しい。だから、神を敬うことで、生きていけるということを自覚する」
 ということではないのだろうか。
 だから、奴隷解放という物語は、
「人間は平等である」
 ということを謳っているのであるが、それは、あくまでも、
「神の下での平等だ」
 ということではないのだろうか?
 つまりは、
 聖書の中に書かれているということは、
「キリスト教やユダヤ教の聖典なのだから、基本的には、神というものを信じさせるということ」
 が基本となっているはずである。
 それを考えると、
「奴隷解放という手段を使って、神の偉大さを強調もできるし、人間というのは、そのすべてが、神の下なのだ」
 ということを示しているのだ。
 では、問題は、
「その神というのは、本当に存在するのだろうか?」
 ということであるが、
 今のところ、神の存在が証明されたという事実はない。
 しかし、古代から脈々と受け継がれている、
「各宗教における、聖典というものは、あくまでも、神は存在し、その存在を裏付けるかのような聖典を残している」
 というものである。
 すべてが物語になっていて、人々に神の存在を証明するためのものとなっているということだ。
「元々、宗教というものは、一つだったという発想であるが、そう考えれば、少しずつ考え方の違う、似たような聖典が、それぞれの宗教で残っているというのも、納得がいくのではないか」
 と言えるのではないだろうか。
 そんな宗教であるが、
 男女差別という問題にしても、人種差別という問題にしても、
「それらは、元々平等である、しかし、それは神を信じることで、救われる」
 という考え方である。
 実際に宗教が、差別をなくしていったというわけではなく、人間が、そんな聖典の解釈で、
「差別をなくす」
 という考え方となることで、差別撤廃という考えが生まれてきたのではないだろうか?
 いや、もっと露骨な考え方をするならば、
「人間がその時々の支配者の都合によって、奴隷が解放されたり、女性の差別問題を解決しなければいけなくなった」
 ということなのかも知れない。
 そうでなければ、ずっと、差別されていた側も、
「理不尽だ」
 と考えていたかも知れないが、それでも、納得して生きていたわけで、大きな問題とならなかったが、逆に世界で差別問題が、広がってきたのは、
「どこか一つが問題にしたことで、それまで何も言わなかった人たちが言い出したからだ」
 というような。
「集団意識」
 というものが、働いてきてのことではないのだろうか?
 そんなことを考えていると、
「宗教における、洗脳というのは、結構恐ろしいものだ」
 と言えるだろう。
 特に、過激な宗教ともなれば、
「自爆テロ」
 などという自己犠牲というものを、最高の美学と考える宗教もあるくらいで、ただ、それも、信仰している人たちにとっては、真剣そのものであろう。
 つまり。
「解放された奴隷たちが、モーゼに導かれた時、不安を極度に感じずに従えたというのは、神という存在があったからで、だから、自爆テロであったり、日本における中世にたくさん出てきた宗教というものは、死後の世界に、助けを求めるという考え方だった」
 といってもいいだろう。
「今の世で、神様を信仰していれば、あの世に行った時に、極楽に行ける」
 という発想である。
 そういえば、数年前にどこかの国に存在した、
「世界最終日」
 という伝説があり、その日に、世界は滅びるということであったのだが、
「お布施をすれば、死んでもあの世で幸せになれる」
 といって、全財産を教団に寄付するというのが、真剣にあった。
 その人たちは、
「世界最終日」
 という伝説を信じたのだろう。
 だから、全財産寄付ということを疑いを持たずにいったのであり、実際に滅亡しなかったことで、一文無しになってしまったことで初めて気づき、教団を訴えようとした。しかし、金を持ったまま、教団は雲隠れしたというようなことだったと思うが、普通であれば、
「そんなバカな話を信じる方も悪い」
 と言われるかも知れないが、
「信じる者は藁をも掴む」
 ということわざにあるように、人間の不安に付け込んで信仰心を掻き立てて、騙すという新興宗教という問題は、いつの時代にも存在するといってもいいだろう。

                 「意識」と「記憶」

 吊り橋の夢を見ていた時、
「前に進むも後ろに戻るも、どちらがいいのか?」
 ということを考えてしまう。
 前述の理屈でいけば、
「普通なら戻る方がいい」
 と思うのだろうが、今きた道を、揺れる端の上で振り返るのは、恐ろしい。
 必死になって、命綱となるべき、腰くらいの位置にある綱を掴むことで、何とかしがみつきながら、端を掴むことに必死になっている。
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次