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つかさの頭の中

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 という答え方しかできないに違いない。
 だが、吊り橋の途中から、下を見ると、それまでいた自分の世界が見えてきた。
 しかも、そこに誰かがいるというのが分かっている。そして、そこにいるのが、
「自分ではないか?」
 ということが分かった時点で、
「これは夢だ」
 と感じるのだ。
「夢というのは、普通であれば、自分が夢を見ているということを分からないものだ」
 というものであるが、
「稀に分かっている人もいる」
 というので、それも自分の特徴ではないかと、つかさは感じるのだった。
 ただ、
「科学で証明できないことが起こりえるわけはない」
 という考えがあるが、それに対して、
「それこそ、科学への冒涜ではないか?」
 と考えたりする。
 だから、つかさは、時々、
「疑問から入る」
 ということがある、
「絶対に正しい」
 と言われることでも、疑ってみるということを考えるのだ。
 それは、きっと自分の中で、
「バランスが大切だ」
 ということが分かっていて。
「絶対に正しい」
 と言われていることが、本当に正しいのかどうか?」
 ということを考えさせられると思うのだ。
「インフレを抑制しようとすると、不況に舵を取ることになる」
 ということで、
「行き過ぎないように」
 と考えることが大切だということであった。
 だから、今回の断崖絶壁の吊り橋というシチュエーションは、
「自分の中にある潜在意識が、バランスを取ろうとして、敢えて、吊り橋というシチュエーションを見せたのではないか?」
 と考えるのであった。
 そのことを考えると、
「つり橋の上にいる自分は、どちらに行けばいいのだろうか?」
 と考えるのであった。
「前に進むべきなのか、後戻りするべきなのか?」
 ということを考えると、吊り橋の上にいる自分が、考えることとして、
「じゃあ、今いる地点から、どっちが近いのか?」
 ということを考えるであろう。
 前提だけを考えると、明らかに後ずさりして、元の場所に戻るのが正解なのであろう。
 なぜなら、
「先に進んだとしても、その先から、この橋を通ることなく帰ることができる」
 という保証がないのだ。
 来たところを通るのであれば、分かっている距離なので、戻ってしまえば、恐怖はなくなるということが分かるからである。
 だからこそ、元に戻ろうとするのだが、元に戻ろうとして、来た時と状況が変わっていないとも限らない。そんなことはないかも知れないが、それもちゃんと理解しておかないと、間違った答えを出すことで、結果、助からないということになるのであれば、
「後から後悔しても、始まらない」
 ということになるであろう。
 それを思うと、やはり、
「最後にはバランスが必要なのでは?」
 と、感じるのだった。
 さらに、
「前と後ろが分からなくなる」
 ということがある。
 高さというものが高ければ高いほど、上から見る時と、下から見上げる時とで、錯覚を生じる。
 しかも、途中に何かの視覚的障害物があった時、何かの錯覚を起こしかねないと考えると、いろいろな意味でのよく言われる、
「錯覚」
 というものが、起こりやすいことになるのではないだろうか?
 ということも言えるのではないだろうか?
 高さを考えた時、下から見上げる方が上から見下ろすよりも、断然近くに見えてくる。
 というのも、人は潜在的に、
「高いところ怖く感じる」
 ということが言えるのではないだろうか?
 それを考えるから、
「高所恐怖症でなければ、高いところが怖くない」
 というわけではなく、怖いという感覚が違うだけで、感じている思いは一緒なのだとおいうことが言えるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「怖いという感覚が、人によって違うわけで、高いところから下を見た時、怖くない」
 というのは、
「それほど心に残らない」
 ということであり、
「心に残らないということは、残るかも知れないが、残らないかも知れない」
 という、二つの狭間で揺れているわけなので、その二つは、考え方として十分に許容されているということになるのだろう。
 そう思うと、
「高所恐怖症の人は、ただ単に高いところというものに、感受性が強いといえる」
 わけであり、
「どうして感受性が強いのか?」
 ということの一つの理屈として考えられるのが、
「前世の記憶」
 という言葉で、逃げられると考えることであろうか、これも、実際のところは分からないが、
「火のないところに煙は立たない」
 ということで、いろいろ考えているうちに、そのことに行き着いたのか、それとも、何かのひらめきであったとすれば、閃きの場合が、前世に結びついてくるのではないだろうか?
「人間には、意識しないところで、以前にも同じようなことがあったような気がする」
 という、いわゆる、
「デジャブ現象」
 と呼ばれることがあったりする。
 その場合には、
「デジャブ現象」
 と呼ばれるものすら、
「実に曖昧なものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 つまり、前世の記憶」
 というものの、解釈方法として、デジャブ現象を用いるのは、ある意味、卑怯だといえるのかも知れない。
 要するに、
「デジャブ現象」
 というものが、それだけ曖昧であり、話の中で、潰しのきく考え方なのではないだろうか?
 ということである。
 高所恐怖症というものを、理由にするには、前世の記憶を解明する上では、若干足りないような気がする。
 前世の世界に、実は、
「飛べた」
 という記憶が誰にでもあるのであって、そのことを思い出せないということが、
「空を飛ぶことのタブーに結びついているのではないか?」
 と思うのだった。
 空を飛ぶというのは、前世の世界、つまり、自分が生まれる前の世界であれば、ある程度、まだ、空を飛ぶのが怖いと思っている人が多かっただろう。
「いや、そんなことはない」
 という人もいる。
 確かに、人間が飛行機というものを使って空を飛べるようになったのって、まだ、100年ちょっとしか経っていないではないか?
 しかし、その後の時代では、戦闘機ということで、どんどん発展したものが生まれてくる。
 乗るのが楽になるわけではなく、何と言っても、
「戦いに使うわけなので、相手よりも、性能が勝っていなければいけない」
 ということになる。
 その性能とは、戦争が絡まなければ、
「乗り心地の良さであったり、音が静かなどという性能をいうのだろうが、戦闘に使われるものは、まず、相手にいかに撃墜されないか?」
 そして、
「いかに、相手を撃墜するか?」
 ということになるのだった。
 日本におけるゼロ戦というものは、
「すべての審査基準について、世界トップレベルにまで押し上げる」
 という至上命令があったのだ。
 そのせいで、犠牲にしなければいけないものがあった。
 それは、安全性というものであった。
「徹底的な軽量化」
 というものが実現され、そのために、操縦は、究極まで難しくなっている。
 それを克服するのは、決まっていた。
「特訓に特訓を重ねて、ゼロ戦と一体なり、極端にいえば、
「目を瞑ってでも、操縦できる」
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次