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矛盾による循環

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 ということを意識している以上は、そのスパイラルから抜けることはできない、ということなのだろう。
 躁鬱状態というものがあるという話は、大学生になるまでにも知っていた。
 もちろん、現象を言葉として知っていたというだけのことなので、実際にどんなものなのかということが分かるはずもなかった。
 躁状態と鬱状態、
「果たしてどちらが先だったのだろう?」
 ということを覚えていなかった。
 もちろん、最初なので覚えているわけもないが、
「じゃあ、次回には、意識してみよう」
 と考えたのだが、いつも、その時になると、忘れてしまっているようで、後になって、「どうして、忘れてしまったのだろう?」
 と感じてしまうのだった。
 それを思うと、
「そもそも、何かを忘れないようにしようと思えば思うほど、肝心なことを、覚えていないといけないその時に、意識をしないものなのだろう?」
 と感じるのだった。
 躁鬱症になった時、
「躁状態から、鬱状態になる時と、鬱状態から躁状態になる時の、どちらが、意識できるものなのか?」
 と考えるのだった。
 実際には、
「躁状態から鬱状態になる時は意識できないのだが、鬱状態から躁状態になる時には分かる」
 というものだった。
 それは、まるで、
「トンネルの中にいる時の状況に似ている」
 ということで、鬱状態から躁状態になる時の方が分かりやすいという、簡単な理屈のようなものだったのだ。
 トンネルの中というと、
「黄色いランプ」
 が、規則的についていて、
「眠くなったりしないのだろうか?」
 と思うのだが、その理由は、トンネルから出た時、幻から目が覚めたような気がするということからだった。
 トンネルの中の黄色いランプを思い出すと、
「まるで夕方の夕凪の時間のようだ」
 と感じるのだった。
 夕暮れの風がピタリと止まる時間を、夕凪というが、同じくらいの時間に、
「事故が起こりやすい」
 という時間がある。
 理由は、光の加減によって、
「モノクロに見える時間帯がある」
 ということであり、それが高じて事故が起こりやすいということになり、魔物に出会う時間ということで、
「逢魔が時」
 と言われているというのだ。
 この時、ちょうど、トンネルの中のような黄色い光を思わせる。それが、もし、眠気を起こさせないようにしているのだとすれば、そこには、
「長所と短所が紙一重」
 と言われた、あの感覚と似ているのではないだろうか?
 それを思うと、
「夕方の時間、特に逢魔が時というのが、躁状態から鬱に変わる時間ではないか?」
 と考えさせられる。
 それを誰も感じないというのは、逢魔が時のような、
「すべてのものがモノクロに見える」
 という時間帯が、
「まったく無意識のうちに過ぎていく」
 つまりは、
「路傍の石」
 のような状態になるのだということと、
「繋がっているのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 躁状態と鬱状態を時間帯で考えた時、鬱状態の時は分かりやすい気がした。
 これは、鬱状態が、
「夏に多い」
 というように感じさせるのだが、実際にはそうではないようだ。
 というのは、自分の目の錯覚というものが、完全に、
「時間帯によって、感じさせるものがある」
 ということであった。
 それは、日本という国に、四季があり、その季節の違いを、身体で感じるというような感覚に似ていた。
 朝は、どうしても眠気があるので、頭が冴えないのだが、そのかわり、冴えてくると、一番過ごしやすい時間ということもあり、頭のまわりが次第によくなってくる。
 しかし、それが昼前くらいになると、暑さがどんどん増してきて、季節としても、湿気を大いに含んでいるので、身体に沁みついた汗が、身体の動きを鈍くさせる。
 そうなると、脱水症状を起こし、身体に痺れを引き起こすことで、飛蚊症のように、今までハッキリと見えていたものが、まったく見えなくなってくるのだった。
 その状態に陥ると、何とか自分の中で、暑さに負けないようにという意識が強くなり、身体のすべてに力を配分できなくなり、色や光を感じようとする感覚がマヒしてくるのだった。
 そのため、
「意識はしっかりしているが、眩暈がしそうな錯覚に陥る」
 というものであった。
 逆に、それが、午後二時くらいを境に、次第に気温が下がってきて、夕方近くになってくると、
「夕日による最後の抵抗」
 とでもいうべき、日差しが襲ってくる。
 しかし、太陽の角度による照射には限界があり、身体に感じる体感気温は、次第に冷めてくるのだった。
「汗が次第に、身体を冷やすようになってくる」
 というのを感じると、汗が衣類にへばりついてくるのである。
 そうなってくると、今度は、掻いた汗が蒸発することなく、衣類にまとわりつくことで、身体が動かせなくなってくるのだ。
 まるで、水の抵抗を受けて、身体が、前に進まない平泳ぎのように、
「汗だけは掻くのに、一向に身体が楽にならない」
 というのは、掻いた汗が冷えてしまうからだろう。
 汗を掻いて冷えた身体というのは、体温の低下は、想像以上のもののようだ。身体が冷たくなってしまったことで、筋肉が硬直してしまったようで、身体の摩擦が身動きできない身体を、精神から動きを妨げているかのようだった。
 ということは、
「自分で思っているよりも、身体を動かすことができない」
 という状態になっていて、そのせいで、夕方になると、意識が朦朧としてくるというものだった。
 これは、子供の頃の感覚に似ている。
 表で遊んだことのある記憶から、
「夕方になると、身体が動かなくなる」
 というものがあった。
 子供の頃には、
「夕方の公園で遊んでいると、晩御飯を作っているおいしそうな匂いがしてくることで、身体が動かせない」
 という、感覚に陥るのだ。
 そして、お腹が空いているという感覚が、
「汗によって、身体が動かせないから、動けない」
 ということを理由とするかのように思うので、お腹が減ったということの隠れ蓑としているような意識だったのだ。
 それを思うと、
「特に夕方になると、大人になってからでも、身体を動かせないという錯覚を、夏の間には、無意識にでも感じるようになったのだ」
 と感じるようになった。
 そんな夕方の光景と、夕方というものの怖いという意識とが重なって、
「一日の中が、四季であったり、躁鬱の鬱状態であったりという感覚に陥るというのは、この夕方という時間に凝縮されているといっても過言ではないかも知れない」
 と感じるのだった。
 さらに夕方というと、実際に、日が暮れる寸前には、
「ロウソクの炎が消える寸前」
 とでもいうような、
「最後の力を振り絞った」
 という形で、
「これでもか」
 とばかりに、日差しを向けてくるのだ。
 しかし、地球が回っている以上、日は必ず暮れるもので、その中でも、暮れた後の日差しの中で、少しでも明るさを保とうとするのか、実際に暗くなっていくよりも、温度の低下の方が激しかったりするのだった。
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次