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矛盾による循環

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「似たようなことを俺も感じていた」
 という人がまわりにもいることが分かり、少し安心したと言えばいいのか、仲間意識が強くなることで、人との交わりを大切にしようと考えるようになったのだ。
 特に大学生というと、
「人生の中で、一番本音を語り合える相手を得られる時期だ」
 と思っていた。
 ここでいう、
「本音」
 というのは、
「人にいえば、バカにされてしまうと思って、なかなか話せないことでも、ざっくばらんに話ができる」
 という相手のことである。
 これが、自分発信で、自分中心の発想となるのか、それとも、相手との、会話のキャッチボールが、そういう雰囲気を生み出すというのか、少なくとも、相手始動ということであれば、成立しないものだということになるのではないだろうか?
 順平は、小学生の頃から、高校生までの間、
「絶えず何かを考えている人間だ」
 と思っていた。
 もっとも、これは自分に限らず、
「周りの人皆そうなのだろう」
 と自然に思っていた。
 確かにそう思っていたはずなのだが、大学生になり、開放感からいろいろな話ができる友達が増えてきたことで、
「やっぱり、皆、同じようなことを考えているんだ」
 という、
「自分だけではない」
 という思いが、確かに不安感を和らげてくれた。
 しかし、和らげてくれたというだけで、決して、解消できるというものではなかったのだった。
 中途半端な和らげが、今度は、さらにその後襲ってくる不安感を増幅させることになったのか、そもそも、和らげがあろうがなかろうが、結果、その度合いが変わらなかったのかどうかというのは、誰にも分からない。
「もっとひどかった」
 とも思えるが、
「これ以上のひどさはない」
 という思いから、
「どちらにしても、結果に変わりはない」
 としか言えないのではないだろうか?
 大学時代に感じたことと、社会人になって感じたことでは、少し違う。
 前章であった、
「長所と短所」
 という考え方も、社会人になってから、考えた時には、見る視点がさらに遠くから、つまりは、
「地球の外から」
 というくらいの感覚で、実際に見ているのは、
「可視できるものすべて」
 という印象から、長所と短所を考えると、
「長所と短所以外は、毒にも薬にもならない」
 という発想であった。
 要するに、
「自分の中にあるものは、すべて、長所と短所に分けることができる」
 という発想になるだろう。
 そこで考えた時に、
「短所は長所の裏返し」
「長所と短所は紙一重」
 と考えると、
「長所があれば、必ずそばに短所がある」
 と、いうことであれば、その逆である、
「短所があれば、必ずそばに長所がある」
 ということが言えるのだと考えると、
「長所と短所の数がまったく同じでないと、辻褄が合わない」
 と言えるのではないだろうか?
 それを考えると、
「長所ではないものが存在すれば、それは、短所でもない」
 と言えるのだ。
 そうなると、自分にとっては、
「毒にも薬にもならないもの」
 ということになり、
「まったく不要なものではないか?」
 と言えるのではないか?
 まったく不要なものが、自分の中でどれだけたくさんあるのかということを考えていくと、無意識に、長所を必死に探そうとしている自分と、短所も一緒に探そうとしている自分がいるのを感じる。
「同じことではないか」
 と言われるかも知れないが、探すものによって、自分の性格が分かってくるというものである、
 もし、短所を探しているとすれば、
「短所をとにかく直さないといけない」
 という発想で、逆に長所を探しているとすれば、
「いいところを、とにかく伸ばすことが大切だ」
 と思っている二人の自分である。
 どちらも大切だが、
「どちらがいいとか?」
 ということで、その人の性格が変わってくる。
 どうしても、短所に目が行ってしまう人は、考え方が消極的で、ネガティブだといってもいいだろう。
 しかし、逆に、長所を先に考えてしまう人は、積極的で、ポジティブだといってもいいだろう。
 ただ、それはあくまでも、短所が長所と紙一重だと思っているから、長所を伸ばすことが、短所を覆い隠すと思っているからで、一概には、
「ポジティブだ」
 と言えるものではないのかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「長所と短所という相対するものだけが、どこまで自分というものを考えさせるのか?」
 ということになるのだろう?
 と考えるのであった。
 順平は、そんな中で、大学時代の自分が、
「一番開放的な時代だ」
 と思っていたものが、終わってみれば、
「これほど、不安だった時期はなかったのではないか?」
 と感じるようになっていた。
 というのも、
「大学時代というものを、いまさら思い出したくない」
 というものだった。
「思い出したくもない」
 と感じていることこそ、思い出してしまうものであり、その意識が強ければ強いほど、不安だった時期のことだけを強く覚えているような気がするのだ。
 それが、まるで夢の世界のように感じられ、
「夢というのが、本当に睡眠の中で毎回見ているものなのか、怪しいものだ」
 と感じさせられるのだった。
 そう、思う根拠は、目が覚めてから、
「夢を見ていたという意識がない」
 ということからだった。
 夢を見ていたとしても、その意識は、
「すべての夢を見たのかどうか、果たして分からない」
 ということであった。
 特に、覚えている夢というのが、怖い夢ばかりであり、
「それだけ、印象が深かったからだ」
 ということになるのであろうが、果たしてそうなのだろうか?
 これも、長所と短所のように、
「短所ばかりを意識してしまうから、長所を伸ばしたいと考えるようになったのかも知れない」
 と考えている自分を彷彿させるのが、
「見ていた夢の記憶」
 でもあったのだ。
「長所と短所」
 なるものが、
「相対する二つの特徴」
 だということになると、
「他にもないだろうか?」
 と考えると、その時に、思い出されるのが、なぜか大学時代だった。
 最初はそれがなぜなのか、しばらくは分からないのだが、徐々に見えてくるのを感じてくると、それが、
「躁鬱症」
 であるということに気づかされるのであった。
 躁鬱症というものが、どのようなものであるかということは、正直、医者でもないので詳しくは分からない。
 だが、大学時代に順平は、
「自分は躁鬱症なのだ」
 ということを、感じさせられたという意識があったのだ。
 躁鬱症というと、
「躁と鬱という、正反対の状況を、同時に併せ持っているという病気のようなものだ」
 だと認識していた。
 確かに躁鬱症は、病気なのだろう。
「精神疾患」
 といってもいいのではないだろうか?
 順平の中で意識しているのは、
「躁状態と鬱状態が交互にやってくるもので、その間を必ず、堂々巡りを繰り返し、その出口は意識することはない」
 という考えであった。
 つまり、躁状態の時に、
「ああ、鬱になってしまう」
 あるいは、鬱状態の時に、
「まもなく、やっと鬱から抜けられる」
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次