矛盾による循環
確かに、時代が封建制度の時代ではあるが、ちゃんと奉行がいて、お白洲があって、裁きを受けるのだから、刺青を見せるなどということではない本当の証拠を突き付けるというのが、本当なのではないだろうか?
つまり、
「弱肉強食」
というものをやっつけることが、
「勧善懲悪」
というものなのだ。
という理屈なのだと考えると、そこには、理屈に合わないという発想が生まれてくるのであった。
そういう意味で考えてみると、
「長所と短所」
という考え方も、
「この二つの矛盾に近いものがあるのではないか?」
と考えるようになった。
そこで最初に考えた、
「長所と短所は裏返し」
というのは、言葉がどこか違っているような気がしたのだ。
というのは、きっと、
「長所と短所は紙一重」
という言葉に惑わされているところがあるのではないかと思うのだった。
というのは、
「後者の場合は、長所から見るとか、短所から見るとかいう形ではなく、全体を見渡してみた場合のことである」
と言えるだろう、
しかし、裏返しという言葉になると、
「長所から見て短所は見えないし、短所から見て長所も見えない」
ということを言っているのではないだろうか。
お互いに、どちらから見ても見えないということで、無意識に、
「長所と短所は、遠いところにあるものだ」
と勝手に思い込んでいるということであろう。
確かに、まったく正反対のものだと思っているわけなので、どちらかの立場に立って相手を見れば。当然、向こうが見えないのは当たり前のことである。
そして、相手が見えないことに、どこか安心感のようなものがある。長所から見ても、短所から見ても、相手は、
「きっと恐ろしいもの」
だということになるのではないだろうか?
それを考えると、たとえはかなり大げさになってしまうが、
「核による抑止力」
を思い出すのだった。
「どちらも、同じくらいの力を持っていて、その抑止力が働いていることで、どちらも、表に出ようとしない、下手に表に出ると、相手も出てきて、お互いに潰し合うことが分かっているからだ」
ということである。
しかも、距離が近いと思っていた相手が、冷静になって、真剣に全体を見渡してみると、
「実は、めちゃくちゃ近いもので、一触即発の距離にいる」
ということが分かると、
「実はお互いにけん制し合っていたんだ」
ということが分かってくる。
普段は、どちらかからしか見ることのできないと思っているものが、手を握った時、どちらを感じるのかということを考えてみた。
右手と左手、どちらかが熱く、どちらかが冷たい。本来ならどちらなのか分かっているつもりでも、意識した時、すでに握り合ってしまっていれば、どちらの手がどっちだったのかという意識はなくなってしまうのだった。
というのは、すでに、両手に暖かさと冷たさが共存していて、その感覚を全体からみていたはずなのに、それぞれの手から見ることができなくなってしまったという感覚に似ている。
つまり、長所と短所も、最初は、
「紙一重だということを基本として分かっていた」
のであるが、実際に、その二つを意識しなければいけない状態になった時、その二つが、
「やっぱり背中合わせだったんだ」
というように感じるというのが、
「長所と短所」
というものへの見方なのではないだろうか?
そんな長所と短所というものを考えてみると、目の前にあるもの、それが、
「近くに勝感じられたり、遠くに感じられたりするのを感じさせる」
ということがあった。
それを考えると、
「宇宙空間」
というものを想像させられることがあった。
いわゆる、SFものでも、スペースものとでもいえばいいのか、
「地球から離れて行く時、あるいは、地球に近づいている時」
というのは、実際の走行距離とは違い、地球に近ければ近いほど、見た目、ものすごく速く見えてしまう。
あっという間に、あれだけ遠かった地球が豆粒のようになったり、逆に豆粒だった地球、他の星と変わらない大きさだった地球が、近づいてくるにつれ、
「緑の地球」
として、明らかに他の星とは違っているという光景を見せられる、特撮技術に、子供の頃、ワクワクした人も少なくはないだろう。
それを思うと、近づけば近づくほど、何事も鮮明に見えるということであろうが、逆に見えないものもある。
「道端に落ちている石」
いわゆる、
「路傍の石」
というものであるが、どんなに足元にあろうが、目の前に見えているものであろうが、いちいち意識をすることはない。
そのことが、
「実際に、目の前にあっても、意識をさせない」
ということと、
「灯台下暗し」
ということの、
「似てはいるが、どこかが違う」
と思う、
「似て非なるモノ」
ということになるのであろう。
そう、今回のお話でもある、
「長所と短所は紙一重」
「短所は長所の裏返し」
という言葉も、
「灯台下暗し」
との間にある、
「似て非なるモノ」
という発想になるのではないかと思うのだった。
つまりは、目に見えているものが、錯覚であり、矛盾を生み出すということなのかも知れないと感じるのだった。
躁状態と鬱状態
そんな長所と短所を、絶えず意識しているのが、竹内順平という男性であった。
いつも子供の頃から、いろいろなことを考えていて、何が正しいのかということを考えているのだが、そこで出るわけもない結論を追いかけていて、気が付けば、
「一日が終わっていた」
ということも少なくなかったのだ。
「出てくるわけもない結論」
というのは、
「自分の中で、堂々巡りを繰り返している」
ということを感じているからであった。
ただ、ずっと感じているわけではない。何かを考えていて、絶えず頭の中にある、
「矛盾」
というものを、当たり前のように考えている時、そう、ここでいう矛盾というのは、
「路傍の石」
のような存在であり、
「目の前にあって、意識しているはずなのに、見えていることが、自然以外の何者でもなく、意識していないことを、自然なこととして受け入れている自分を感じることがある時に、その意識が、
「矛盾」
というものになるのだった。
矛盾というものは、
「目の前にある二つのものを比較した時に生じるものである」
といってもいいだろう。
その二つのものが、
「似て非なるモノ」
ということなのか、それとも、
「主従関係」
なのか、あるいは、
「正反対のもの」
というようなものなのか、それによって、考え方も見え方も変わってくる。
矛盾というものを、
「避けて通ることのできないもの」
と感じると、何が自分にとって大切なものなのかということを、いつの間にか感じている自分がいるのだった。
順平は、そういう意味で、子供の頃から、
「比較対象である二つ(あるいは、複数)のことを気にするようになると、いつもそのことで頭がいっぱいになる」
ということを感じていた。
その思いは、小学生の頃が一番強く、中学、高校と、まるで惰性のように感じてきたが、大学生になると、