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矛盾による循環

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 魔球が打てないだけではなく、カーブやシュート、スライダーが、今まで打てていたのに打てなくなる。それまで首位打者を争うくらいに打てていたものが、急に打率一割くらいに落ち込んでしまう。
 そうなってしまうと、さすがに監督も使ってくれないのではないだろうか。
 何よりも、
「一人の選手のボールを打つだけのために、主砲が役に立たないということになると、そのために、優勝を争えるようなチームが、最下位争いをしてしまうということになりかねない」
 ということだ。
 そんな状態を監督やフロントが許すはずもない。
 それなのに、マンガやアニメでは、そのライバル選手の特訓を美化して描くのだ。
 言い方を変えれば、
「一人の選手のわがままを、まわりが許している」
 ということであり、こんなことを普通の会社、あるいは、警察などがしていれば、大変なことになってしまう。
 それを、誰が擁護するというのだろう?
 確かにマンガの世界だから許されるということなのだろうが、本当にそれでいいのだろうか?
 そして、もう一つ不思議に思うことがあるのだが、それは、主人公の方にいえることなのだが、
「魔球を一度打ち崩されると、まるで、地獄を見たかのように落ち込んでしまって、ショックに陥り、失踪してしまうのだ。そして、その先で、新魔球の開発を行い、すぐに戻っている」
 というストーリー展開なのだが、これも普通に考えれば、ありえない発想だといえるのではないだろうか?
 まず一つ言えるのは、
「なぜ、一度討たれただけで、ショックに陥り、まるでこの世の終わりのように感じる必要があるのか?」
 ということである。
 前述のように、
「打たれたのは、一人によるものだけで、しかも、その選手は魔球を打ち砕くために、血の滲むような特訓をしてきて、やっと打てるようになったのだ」
 と言えるだろう。
 しかしである。
 相手ライバルも、魔球を打てるようになったからといって、そこで終わりというわけではない。
「打てないと思っていたボールをたまたま一度打つことができたということなのではないだろうか?」
 それも、特訓に特訓を重ねてである。
 実際に次に打てるかどうかわからないのにである。
 魔球以外の球であっても、百発百中打てるわけではない。そんなに打てたとしても、いまだに四割バッターはいないのだ。
 スランプに陥ることだってあるだろうし、
「五打数二安打で四割」
 ということを考えれば、魔球が打てたことで、劇的に何かが変わるわけではない。
 それこそ、
「相手投手である主人公がショックで、しばらく投げられない」
 というだけのことではないか。
 そうやって考えると、スポーツ根性モノと言いながら、魔球を打たれると、自分が球団に所属している、一種のサラリーマンと同じだということを忘れて、
「職場放棄」
 をするというのは、いかがなものだろう。
 それを考えると、
「一体、目指すゴールはどこなのか?」
 ということである。
「キチンと試合に出てローテーションを守り、昔だから、完投するのが当たり前で、自分でどれだけの貯金が作れるか? ということが大切なのではないだろうか?」
 確かに、誰にも打たれない魔球を作ると、負けは圧倒的に少なくなるだろう。だが、そんな神のようなピッチャーがいるからといって、優勝できるとは限らない。それよりも、「魔球を投げるピッチャーよりも、キチンと任されたマウンドで、しっかり投げ切ってくれるピッチャーがいいに決まっている」
 というものだ。
 あくまでも魔球にこだわるというのは、まるで、
「自分の我を通そうとする、わがままサラリーマンと同じではないか」
 ということになるのだろうが、なぜ、マンガの監督などは、その選手に甘く、そして、魔球開発のために、協力までしようというのか? 実に不思議だ、
 何といっても、まだ一人にしか打たれたわけではなく、それも、まぐれかも知れないという状況で、絶望を感じる必要があるというのだろう。
 確かに、マンガとしてはありなのかも知れないが、果たして教育上、それでいいのだろうか?
 特に、あの当時のマンガ社会というのは、
「悪書と呼ばれるマンガを、PTAなどが、子供から守ろうという撲滅運動を行っている時代だったではないか?」
 そんな、いわゆる、
「スポーツ根性」
 と呼ばれるものを、悪書だという人はなぜかいない。
 逆であったり、おふざけ系は、悪書と言われたが、魔球を開発したり、魔球だけにこだわって輪を乱すというようなマンガがなぜ、悪書ではないというのだろうか?
 そんなマンガを読んでいると、矛盾と思えたり、
「何が正しくて何が間違っているか?」
 ということが分からなくなってくる。
 元々、正悪の問題ではないのだろうが、昔の発想としては、
「勧善懲悪」
 ということが問題なのだといっていいのではないだろうか?
「勧善懲悪」
 というのは、読んで字のごとし、
「善を助け、悪を懲らしめる」
 ということであり、よく言われる言葉に直すと、
「弱きを助け、強きをくじく」
 というものである。
 ただ、こうなってくると、ここでまた矛盾が生まれてくる。
 この二つの言葉を並べてみると、明らかにおかしいのは、
「善が弱であり、悪が強である」
 ということになり、言葉は似ているが、後者の言葉は、
「弱肉強食」
 ということを示していて、それに対しての、戒めの言葉なのだった。
 というのも、そもそもが、
「強ければ助かり、弱ければ殺される」
 という発想で、それこそ、昔の戦国時代の発想だといえるのではないだろうか?
 だから、マンガや時代劇などでも、
「弱肉強食」
 の世界をただすということで、
「勧善懲悪」
 の悪として、
「御代官様」
 であったり、
「越後屋」
 などという悪役が存在する。
 そして、それらの餌食になっている一般市民が、虫けらのように殺されていく状態を黙っていられないということで、正義として、
「水戸黄門」
「遠山の金さん」
 などという主人公が現れ、
「悪を成敗する」
 ということになるのだ。
 しかし、
「勧善懲悪」
 ではあるが、そのためにやっていることは、
「権力や力によって、悪を倒す」
 ということである。
 つまり、
「弱きを助け強きをくじく」
 ということであるが、そこに出てくるのは、強き連中よりもさらに強い、立場的に逆らうことのできない人が出てきて、
「成敗する」
 ということなので、弱肉教職ということでしかないということなのだ。
 あくまでも、ドラマとすれば、力の強いものが、弱い者を助けて、間違った世の中をただすということで、胸がスカッとする話なのだが、理屈からいえば、どこまで正しいのかということである。
 確かに、
「代官や越後屋が、悪党だ」
 ということが、分かっているストーリーであるが、本来であれば、ちゃんと証拠を集めて、相手が産むも言わせぬ、
「動かぬ証拠を突き付けて、相手は。参りましたという」
 ということが正しい世直しなのではないだろうか?
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次