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矛盾による循環

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 とことで、
「本人あるいは、法定代理人と呼ばれる人が告訴しないと、犯人が罰せられることはない」
 というものも、どんどん撤廃されていっているではないか。
「今と昔と、どっちが、犯罪としてひどかったのか?」
 と言われることもあるが、
「そもそも、犯罪に、ひどい、ひどくないという発想はどういうものなのか?」
 ということである。
 好きだった探偵小説の時代には、
「猟奇犯罪のようなものが多かった気がする」
 今も猟奇犯罪と呼ばれるものは減っていないが、その質は違っているように思えてならないのだった。
 昔の猟奇犯罪というものは、混迷した時代に合わせたような、
「暗い、ドロドロとした犯罪が多いような気がする」
 というのも、
「当時の時代背景として、戦争に負けたことで、国土は焦土と化したまま、占領軍によって、統治されている」
 街では、生きるための出店や闇市が横行していて、子供たちによる、
「かっぱらい」
 などというのも結構あった。
 これも生きるためである、
 さらには、街には、ほとんど、占領軍と言われる進駐軍相手の、
「夜の商売」
 が幅を利かせていて、
 正直、完全な、
「無政府状態」
 となっていて、
「何が起こってもおかしくない時代」
 だったのだ。
 だからこそ、あの時代の探偵小説と呼ばれるものは、結構いろいろあった。
 しかも、トリックを駆使した話も多く、
「死体損壊トリック」
 などが、全盛期だったのかも知れない。
 そういう意味では、当時の混乱した時代の探偵小説では、トリックを駆使した
「本格探偵小説」
 なるものも多く、逆に残虐さを取り入れたり、精神的に病んでいる人が起こす、本当の精神疾患からくる犯罪も描かれていた。
 それを、
「変格探偵小説」
 と読んだりしている。
 というのも、当時の時代背景から、戦争に行っていた兵隊であったり、終戦間際における米軍による無差別爆撃などによって、日本人の精神が、
「死体などを見ても、何とも思わないという精神状態になっていることから、探偵小説の書き手であっても、読み手であっても、血や死体という者に対して感覚がマヒしていることから、小説の中で、血や死体なるものを、ゴロゴロと転がしてみるということをしていた」
 のだった。
 そういう意味での、猟奇犯罪というものがm探偵小説で描かれることも少なくない。
 特に今ではあまり見なくなったが、明治時代の文豪の時代から、昭和初期くらいにまではあった、
「耽美主義」
 と言われるジャンルも、探偵小説として描かれている時代があった、
「この耽美主義というのは、要するに、美というものをすべての優先順位の上に持ってきて、そこには、モラルや一般常識なものとは、一線を画したものであるというようなものである」
 ということである。
 だから、耽美主義も、今の時代から見ると、
「猟奇殺人というものの、最先端という考えになる」
 というものであった。
 そういう意味で、戦後の混乱期に、
「猟奇犯罪小説が流行る」
 というのは、トリックを駆使するという意味での小説を合わせて、十分にあり得ることであった。
 それに比べて、今では、現実の方が怖かったり、恐ろしいものが多いといってもいいかも知れない。
「事実は小説よりも奇なり」
 と言われるが、まさにその通りといってもいいのではないだろうか?
 ただ、現代に多いというわけではなく、現在というものが、いわゆる、
「ブームの頂点」
 というものではないかと思う。
 つまり、
「猟奇殺人というのは、周期的な時代において引き起こされるもので、数十年に一度か、あるいは、数年に一度の割合くらいで、まるで世紀末を思わせるような犯罪が起こっている」
 といってもいいだろう、
「80年代」
 と呼ばれる時代には、
「老人を狙った詐欺犯罪」
 あるいは、
「食品、おかしメーカーの社長を狙った誘拐に端を発した、青酸カリ入りの食品を売り場に混ぜるという、異形業務妨害、さらには、大量無差別殺人未遂と言った凶器のような犯罪」
 というものが起こった時代だった。
 さらに、90年代になると、
「宗教堕胎が、地下鉄で毒ガスを撒くというような、国家に対してのテロ行為」
 であったり、
「中学生が、近所の子供をバラバラにして遺棄する」
 などというとんでもない犯罪があった。
 その後も、駅で、無差別に人の顔に硫酸をぶちまけるなどと言った、信じられないような凶悪犯が出てきたりした。
 そういう意味でも、
「凶悪犯に対しての、時効の撤廃というのは、ありだったのではないか?」
 と言えるだろう、
 かといって、時効はなくなったかも知れないが、結果、未解決事件というものが増えただけで、一度捜査を打ち切ってしまえば、再度、有力な証拠でも出てこない限りは、
「お宮入りした事件」
 ということになるだけのことだったのだ。
 そんな時代が結果として、
「猟奇犯罪というのも、まるでブームのように、時代を繰り返しているといってもいいのではないか?」
 と言われているのだった。
 しかし、今の時代は、犯罪を犯すには、
「実にやりにくい時代になった」
 といっても過言ではないだろう。
 特に、今の時代は、防犯カメラなど、どこにでもあり、個人の車の中でも、
「ドライブレコーダー」
 なるものが、普通にあってしかるべき時代になったということだろう。
 というのも、最近では、
「あおり運転」
 などというものが増えてきた。
 ちょっとしたことでカッとなり、相手の車をせき止めておいて、車から降りるやいなや、それこそ、チンピラよろしく、相手の車にケリを入れたりと、感情に任させた行動をとる犯罪が増えている。
 ドライブレコーダーは、犯人の特定だけではなく、
「映像を撮っている」
 ということで、そんな理不尽な連中への抑止効果というものだという考えも出てくるというものであった。
 それを考えると、ネットの普及によって増えてきた防犯カメラなどから、逃れて犯行に及び、
「アリバイトリック」
 などを完成させようとするのは、不可能に違いことであろう。
 それをもし完成させるとなるならば、そこには、最初からありきで考えるトリックでなければ難しいだろう。
 かなりの知能犯でなければ通用しないか、あるいは、常識を覆すだけの、発想が必要なのではないかということである。
 今の世の中。
「完全犯罪」
 なるものはできないのだろうが、ある意味、戦後すぐくらいの時代よりも、今の方がもっと完全犯罪をしようと計画するならば、どちらかというと、完全犯罪というものができるのかも知れない。
 戦後すぐでも、完全犯罪というのは、できたかも知れない。
 ただ、完全犯罪というものは、意識すればするほど、ボロが出てくるもので。特に一つ考えている犯罪の一つに、
「諸刃の剣」
 と言えるような犯罪がある。
 というのは、
「成功すれば、これほど完璧な犯罪はない」
 と、言えるものがあったのだ。
 というのは、この犯罪は、
「アリバイを完璧にする」
 というのが、ミソのトリックであるのだが、そのために、
「一番難しいハードルを越えなければいけない」
 という意味も含まれている。
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次