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矛盾による循環

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「一つの作品に長々と執着するわけではなく、一つが終われば、すぐに次に取り掛かるという意味で、その方が、下手なスランプに落ち込むことはないのではないか?」
 という、勝手な、都合のいい解釈だったのだ。
 実際に小説を読んでいると、
「どうにも、入り込むには時間が掛かる」
 と思う。
 それは、小説に限らず、ドラマやアニメに対してもそうだった。
「最初の方というのは、どうも、何かだるい気がする」
 というもので、よほど、最初から入り込める内容でないと、続けて見ることができないような気がした。
 だから、本にしてもそうであるが、元々重たいような内容の話は、最近では、最初から敬遠してしまうようになっていたのだ。
 ドラマなどでも、
「刑事もの」
「医療モノ」
「政治家や政府ネタ」
 というような、重たそうな内容のものは、最初から敬遠していた。
 最近では、深夜ドラマで、30分程度のもので、
「何かをしながらでも、適当に見逃せるような番組」
 が多かったりする。
 だからといって、くだらない芸人が出ている、
「バラエティ」
 なるものは、いくら、ながらでできるからといっても、見ようとは思わないのだ。
 あの白々しい笑い声を聞いているだけで、いかにも
「やらせ」
 という感覚が、もし違ったとしても、拭えないので、最初から、見る気にはならないのであった。
 そんなテレビ番組を考えた時、一時期読書から離れていたので、本を読んでみたくなり、実際に、探偵小説を読みなおしてみた。
 元々最初に読んだのは、中学に入ってすぐくらいの頃だったのだが、その頃というと、何が楽しかったのかというと、正直覚えていない。
 その頃は、
「最初にドラマを見てから、本を読む」
 というものだったのだ。
 というのも、ちょうど、当時、半年くらいの間の1時間番組として、数作品をシリーズとしてドラマ化していたのだ。
 だから、
「ドラマを見てから、小説を読む」
 ということになったのだが、今から思えば、
「その方がずっと楽だった」
 と言ってもよかったのだ。
 というのも、
「小説を原作にしたドラマや映画などの映像作品があった場合、先に見てから本を読むのと、読んでから見るのとでは、天と地ほどの違いがある」
 ということであった。
 特に当時、別の映画のキャッチフレーズで、
「読んでから見るか? それとも、見てから読むか?」
 という言葉があったくらいで、それだけ、映像と原作本との間には、難しい結界のようなものがあったといっても過言ではないだろう。
 実際には、これは人によって感じ方が違うのかも知れないが、基本的には、
「見てから読む」
 という方が、作品に対してがっかりすることがなくていいだろう。
 もし、
「読んでから見る」
 ということになると、
「読む時はいいのだが、実際に映像になると、何か想像していたものと違う」
 と感じるようになるのだ。
 それだけ、
「読書というものが、想像力を掻き立てるもので、映像になると、少しでも違ったイメージを持つと、見てしまったことを後悔したくないという思いから、少しでも違えば、自分の中で、想像を映像に合わせようとする、そんな感覚になってしまうのだろう。そうなってしまうと、最後まで見終わった瞬間に、総合的な評価を考えた時、打ち消してきた感覚が自分の中で理解できないことを言い訳にしようとするので、どうしても、制限した見方をしてしまうのだろう」
 それによって、下手をすれば、
「見るんじゃなかった」
 と感じることを、
「先に映像を見るんだった」
 と感じようとするに違いない。
 だから、逆に最近では、
「映像作品を、原作と同じ作品だとは思わないようにしよう」
 とさえ思うようになった。
 どうしても、原作が先で、映像作品が後の方での発表ということになるので、
「先に営巣を見る」
 ということは難しいのだろうが、
「だったら、違う作品として見る」
 というと、かなりの冒険であることに違いはないが、実際にやってみると、
「これほど面白くないことはない」
 と思うのだった。
「同じ作品ではないと考えるということは、そもそも、映像作品を見る意味がなくなってしまう。まったく違う作品だと思うのであれば、本当のオリジナルならいいのだが、中途半端に同じ作品感を残されてしまうのだったら、最初から見ない方がいい」
 と考えるのであった。
 一つ言えるのが、
「トリックというものではないか」
 ということであった。
 今の時代のトリックではなく、昔の探偵小説におけるトリックである。今の時代のトリックは、昔のトリックをほとんど使えない。
 何しろ、いろいろなところに防犯カメラが設置してあったりするので、アリバイ工作は難しい。
 また、
「死体損壊トリック」
 というのも、DNA鑑定などを行えば、被害者の身元を特定することなど、造作もないことであろう。
 昔であれば、
「死体損壊トリック」
 というと、首を切り取ったり、特徴のある部分を刃物で傷つけたり、さらには、指紋のある指を切り取ったりと、一種の、
「残虐性」
 というものも絡んだ犯罪だったのだ。
 昔であれば、顔であったり指紋などの、ハッキリとしたもの。あるいは、特徴のある部分と、どこかの医者に通っていれば分かるはずという、傷跡や手術混んなどでしか、手掛かりを得ることはできなかっただろう。
 だからこそ、
「死体損壊トリック」
 というものが存在するわけで、それなりの、
「法則」
 のようなものもあったくらいであった、
 その法則として有名ものは、
「被害者と加害者が入れ替わる」
 というものであった。
 これは、見つかった死体の身元が分からなくするための理由として、一番考えられることとして、
「被害者と加害者が入れ替わってしまえば、加害者は死んだことになる」
 というものであった。
 つまり、
「死んだことになってしまえば、昔であれば、時効は15年だったので、そこまで逃げおおせれば、時効が成立し、犯人だと分かっても、罪に問われることはない」
 というからであった、
 しかし、今の時代は、時効というものが撤廃され、未解決とは言いながら、犯人だと特定されると、逮捕される可能性は、まだまだ残るわけである。
「それくらいであれば」
 ということで、策を弄するのであれば、捕まっても、罪に問われない方法を考える方が賢明かも知れない。
 特に日本では、
「一度、どのような判決が行われたとしても、同じ内容のことを、間違えていたからといって、事件を最初から捜査しなおすということはないのだ」
 つまりは、
「一度下った判決に対して、それが確定してしまった時点で、再審理されるというのは、ない」
 ということである。
 だから、わざと捕まるという人も中にはいたかも知れない。
 しかし、それだとミステリー小説としては成り立たないから、自首するには、他の理由をつけるということがあるのかも知れないのだった。
 今では、昔のような時効というものは、凶悪犯罪に関しては撤廃された。それだけ、昔に比べて犯罪も厳しくなっているということだろう。
 たとえば、強姦罪のような、昔であれば、
「親告罪」
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次