矛盾による循環
ただ、もっとも、このタイムリープの発想も曖昧なものなので、実際に、タイムパラドックスと同じ発想になるというSF作品も存在するというものであった。
ただ、昔からの発想は、あくまでも、タイムパラドックスありきということなので、
「タイムマシンの開発は、タイムパラドックスが解決できない限り、タブーなのではないだろうか?」
ということになるのだろう。
そして、この、
「タイムトラベル」
という発想とは別に、もう一つ、どうしても開発が進まないものとして、
「ロボット開発」
というものがある。
こちらにも、
「タイムパラドックス」
のような矛盾が存在する。
というのも、よく言われるのが、
「フランケンシュタイン症候群への挑戦」
と呼ばれるものであった。
というのも、
「理想の人間をつくろうとして、怪物を作ってしまった」
というのが、フランケンシュタインの物語であった。
つまりは、ロボット開発というものが、
「人間にはできないことを、ロボットに担ってもらう」
ということから生まれたものだが、ロボットが人間と同じように、頭脳を持ち、ロボットの意思で動くとするならば、意思を持ってしまったロボットが、人間に奴隷のごとく使われるということに難色を示し、逆に人間を使おうと考えたとするならば、少なくとも人間にはない強靭な肉体を持っている相手に、勝てるはずがない。
それを考えると、
「ロボットに対して、人間は、自分たちを襲わない。人間を守るという発想を植え付けなければならない」
ということから生まれたのが、
「ロボット工学三原則」
というものだったのだ。
その三原則というものが、
「人間を傷つけてはいけない。そして、人間に危機が及べば、自分を犠牲にしてでも人間を助けなければいけない」
「ロボットは、人間のいうことを聞かなければならない」
「ロボットは自分の身は自分で守らなければならない」
という三原則である。
これは、前者から決定的な優先順位を持っていて、そこに少しでも矛盾は生じれば、ロボットはまったく動かなくなるというのが、今の人工知能に入れ込む発想であった。
また、もう一つの大きなネックとなる発想に、
「フレーム問題」
というものがある、
これは、ロボットに、何か一つのことを命令したとして、ロボットは、その命令を聴くためにいろいろと発想するだろう。
しかし、その発想が無限に存在しているので、瞬時に何をしていいのかという判断がつかず、まったく動こうとしないというものであった。
というのも、ロボットがまったく動かないという発想は、
「ロボットは次の瞬間に発生することを、この場に関係のないこともすべて考えてしまうのだ。つまり、無限の発想を考えてしまうことで、まったく動けない」
ということになるのだった。
しかし、実際にロボットが動かないことで、開発した科学者は考えた。
「それぞれの可能性を、パターン化して、ロボットが考えられるようにすればいい」
という、発想の細分化というものであったが、この発想もすぐに、
「実現不可能だ」
と考えたのだ。
つまり、これも、前述の、
「除算の限界」
というもので、
「無限なものをいくらパターン化するといっても、無限を何かで割ったとしても、数学的にも出てくる答えは、無限でしかない」
ということであった。
もっといえば、
「パターンだって、無限に存在しているかも知れない」
ということであれば、そもそも、パターン化するということが、不可能だといってもいいだろう。
そうなると、ロボットに何かを判断させるということは、不可能に近いといってもいいだろう。
この問題を、
「パターンをフレームに入れ込むという発想から、フレーム問題という」
ということであった。
ここで出てきた、
「ロボット工学三原則」
という問題と、さらに、人工知能の根本であるところのフレーム問題の二つが解決できない限り、
「自分の意思を持ち、その通りに行動するロボットの開発は、タブーだ」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「人間が自分の意思で行動するということは、実に神秘的な発想ではないだろうか?」
と言える。
「タイムマシンの開発」
あるいは、
「ロボットの開発」
という二つが人間の限界だと考えることで、SF小説というジャンルが潤ってくるというのも、実に皮肉なことではないだろうか。
そういう意味では、
「宇宙開発」
などのスペースものでも、発想としてはいくらでも出てくるが、実際に宇宙に人間が行って、自由に行動するというのは、不可能に近いだろう。
今あるタブーが解決しないと、宇宙にも飛び出していけないということなのか?
逆に、宇宙開発というものが進むことで、タイムトラベル、ロボット関係の開発も一緒に進んでいくということなのか、
「ひょっとすると、これらの発想は、切っても切り離せないような関係にあるのではないだろうか?」
と言えるような気がしてきた。
ドッペルゲンガーや夢などの関係とも酷似なものがありのではないかと思うのも、無理もないことなのかも知れない。
順平は、そんなSF小説に興味を持った後に、今度興味を持ったのは、ミステリーだったのだ。
これも大学時代のことで、ミステリー小説というのを、
「探偵小説」
と呼ばれるものの、黎明期から読んでみることにしたのだった。
アリバイトリックと共犯者
元々、中学時代から、ミステリー小説というものには興味を持っていた。
というのも、ちょうどその頃、アニメでミステリーが流行っていて、主人公は、高校生という意味で、
「どこかで聞いたことがあるような」
そんな設定だった。
そのうちの一つに、
「昔の探偵小説に出てきた探偵の肉親」
というような設定があった。
そのおかげで、
「先祖の探偵さんが活躍したという時代も見てみよう」
ということで、当時はまだ、本屋に行けば、昔のオリジナル作家の本が、所せましと並んでいた。
今でこそ、一旦、ほとんどが廃刊のような形になったが、今ではそれを少しずつ売れそうなものから復刻のような形で売り出している。元々、百冊以上あったほどの、とんでもないほどの作品だったが、その中から、やっと三十作品くらいは復刻していた。
それも、本当に売れそうなものばかりで、オールドファンとしては、寂しい限りだったのだ。
実際に、それらの小説を読んでみると、懐かしさがあった。今の時代にはない設定で、何と言っても、まったく情景が違っていて、そんな時代背景を知る由もないのに、なぜかリアルに感じられるのはなぜだろう?
時代背景としては、戦後すぐくらいから、昭和30年代前半がほとんどで、逆にそれだけ短い間に百冊以上もの作品を生み出したというのだから、ものすごいものであった。
そういう意味で、順平は、
「もし、俺が作家だったら、質より量を選ぶかも知れないな」
と思うのだった。
質より量といっても、それなりの作品を生み出すことだろうとは思う。
要するに、