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矛盾による循環

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 頭から発想を組み立てていくのであれば、原点が分かっているから、説明がつくというものだが、減算法でも、元が本当に完璧なものだったかどうかわからないのに、それをさらに減算するとなると、
「曖昧さがさらに曖昧になる」
 と言えるのではないだろうか?
 そんなデジャブ現象と同じようなものが、
「ドッペルゲンガー」
 と言えるのではないだろうか?
 ドッペルゲンガーというものも、いろいろと言われていて、その正体に迫るものもあるのあろうが、そのために、果たして、どこまでが、信憑性のあるものなのかと考えると、言い方は悪いが、
「寄せ集めとでもいうような発想」
 が、形になっていくことで、実際のものとは、少しずつ離れていくということになりかけないか?
 ということもあるのではないかと思うのだ。
 実際に、著名人などでいろいろとリアルに言われてきたことで、
「実しやかに囁かれている」
 ということが、それぞれのパターンに存在しているのだとすれば、それは、まるで、積み木を組み立てるかのようなのに、それぞれ形の違うものを組み立てているようだということにならないだろうか?
 デジャブというものが、その組み立てたものを崩していっていると考えると、
「似て非なるもの」
 と言われるものも、
「一つの理論を解明するに無理もないものではないか」
 と考えられる気がするのであった。
 しかも、それを、両方から見ることで、次第に、それぞれを何度も繰り返して発想することで、次第に見えてくるものがある。
「デジャブなどは、そうなのではないか?」
 と考えるようにもなった。
 デジャブとは、
「過去にあったことを、一度もないはずなのに、あったことのように思い出す」
 という発想だとすると、
「同じような思いを、実際に何度もしているのではないか?」
 と思うのだ。
 つまり、一度ではなく、二度、三度と、デジャブだけを思い出す。
「その内容を思い出すというよりも、そのことをデジャブだと思ったということを思い出すくせに、意識としては、デジャブを思い出すのではなく、その時に感じたことをそのまま思い出す」
 ということだ。
 つまりは、
「意識することでの、マトリョシカ人形のようなものだ」
 という考えである。
 マトリョシカ人形」
 というのは、ロシアの民芸品の一つで、
「人形が蓋のようになっていて、その蓋を開けると、中からまた、蓋になった人形が出てくる。さらにそれを開けると、また人形が……」
 というようなものである。
 つまりは、
「どんどん小さくなっていくが、小さくなっていくのだが、絶対にゼロになることはない。ましてや、マイナスなどという発想はありえない」
 という数学的な発想にもつながってくる。
 要するに、どんなに割ったとしても、
「限りなくゼロに近いもの」
 になるというだけのことで、それが一種の、
「除算の限界」
 というものなのではないだろうか?
「そんなのは当たり前のことだ」
 という人もいるだろうが、そう言い切れるのは、数学を学校の勉強として習っただけの人だろう。
 学問として、見ることのできる人は、そんなことは言わない。
「数学という一つの学問だけではなく、学問全般を冒涜しているようなものだ」
 といっても過言ではないからだった。
 発想が膨らんでくるが、その元になった発想として、
「タイムパラドックス」
 というものがあった。
 これも、SFというものの発想の、
「一角を担っている」
 と言われるもので、
 いわゆる、
「矛盾」
 と言われるものである。
 このタイムパラドックスという発想で、よく言われているのが、
「親殺しのパラドックス」
 という発想である。
 つまり、タイムマシンなる装置に乗って、過去に出かけるとする。その過去というのは、自分が生まれる前の世界であり、そこには、自分の親がいたとする。
 その時に、何らかの力によって、
「自分の親を殺してしまったら?」
 という発想なのだ。
 親を殺してしまうということは、
「自分が生まれてこない」
 ということになる。
 そして、自分が生まれてこないということは、自分が、タイムマシンに乗って過去に行くということはないということなので、
「自分の親を殺すことはない」
 ということになる。
 だが、そうなると、タイムマシンができてしまうことになり、
「親を殺しに行くことになる」
 ということになるのだ。
 そうなると、実に矛盾なのである。
 それを解決するような考え方として、
「パラレルワールド」
 という発想がある。
 それは、
「並行世界」
「並行宇宙」
 という発想であり、この発想は、
「タイムパラドックスの矛盾を証明するものだ」
 ともいわれている。
 というのは、
「タイムパラドックスの発想を支えるものとして、一つの時間軸は、未来に一つの結果しか表さないという考え方から当たり前のように言われていることであり、タイムパラドックスというものが矛盾であり、それを証明しようという考え方に立ってみると、パラレルワールドという概念が、それを証明してくれる」
 ということが分かるというものだ。
 つまりは、
「一つの時間軸に一つの未来しかない」
 という考えに凝り固まるから、
「過去に行ってから、過去を変えれば、未来が変わる」
 という発想になるのである。
 だが、パラレルワールドというのは、
「タイムトラベルで行き着いた先は実際は現実に酷似したパラレルワールドであり、どの時間軸で歴史を変えようとしても自分がいた元の世界には影響しない」
 という発想なのである。
 そういう意味で、
「パラレルワールドは、タイムパラドックスの解決法としても、存在価値があるという発想なのだろう」
 そう考えると、
「タイムパラドックスの証明がパラレルワールドの存在を証明していることになる」
 と言えるのではないだろうか?
「今から半世紀前に、近未来を予想した中で、かなりのものが開発されてきたが、実際にいまだに暗礁に乗り上げているものがあるとすれば、2つではないか?」
 と言われている。
 その一つというのは、まず、今までの説明の中で出てきた、
「タイムパラドックス」
 というものが絡んでいる、
「タイムトラベルもの」
 である。
 その中に、
「すべてを一般的なタイムトラベルと分けて考えるべき」
 という発想があるのをご存じであろうか?
 というのが、いわゆる、
「タイムリープ」
 と呼ばれるものである。
 一般的なタイムトラベルというのは、
「自分自身の意識や肉体のすべてが、時空を超える」
 という発想であり、タイムリープというのは、そうではなく、
「自分自身の意識のみが、時空を移動し、過去や未来にいる自分の肉体に乗り移る」
 という発想なのである。
 だから、
「同一時空に同一人物が二人いる」
 という、まるでドッペルゲンガーのような矛盾と言えるようなものも存在しない。
 もっといえば、
「タイムパラドックスを否定できる」
 というものである。
作品名:矛盾による循環 作家名:森本晃次