矛盾による循環
「夢というのは、見ている時と、見ていない時があり、圧倒的に夢を見ていない時が多いのではないか_-?」
と感じていた。
というのも、
「怖い夢しか覚えていないから」
ということで、理屈としては、
「怖い夢ばかり見ているということを感じたくない」
という意識から、
「夢のほとんどを忘れている」
つまりは、
「楽しい夢を忘れてしまうことで、怖い夢ばかり見ているわけではないと、自分に思わせたい」
ということである。
つまりは、自己暗示であり、
「都合よく感じさせたいという、無意識の意識がなせるわざと言えるのではないだろうか?」
と考えると、
「カプグラ症候群」
というのは、その裏返しなのではないかと思うのだ。
自己暗示をかけるということは、
「いい方に都合よく感じさせるため」
であり、それ以外は、
「洗脳という形で、逆に、自分に当て嵌まることで、安心感を感じるということが、理屈に合うという、逆の意味での、夢の現象」
と考えれば、
「都合という言葉をいかに使って、自分を信じ込ませるか?」
ということが、キーになるということであろうか?
夢を見ていると、どんな怖い夢が一番多かったのかというと、ある程度のパターンがあって、その中でも一番怖かった夢は、
「もう一人の自分」
というものを見た時であった。
「もう一人の自分」
それは、
「世の中には、自分に似た人が三人いる」
と言われているが、その。
「三人」
とは違うものである。
似ている人というのは、
「似て非なる者」
であり、決して、もう一人お自分ではないということである。
もう一人の自分というのは、あくまでも、自分なのである。同じ瞬間に存在しているにも関わらず、同じ人間である。いわゆる、
「タイムパラドックス」
では、ありえない考え方である。
それを、ドッペルゲンガーというが、ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことのない人の方が珍しいくらいであろう。
ただ、名前を知っていても、それがどういうものであるかということは、証明が難しいと言われる。
よく言われるのが、
「ドッペルゲンガーというのは、その存在を見ると、近い将来に死ぬ」
と言われているものである。
それに関しては、昔からの著名人などで証明されているという言い伝えのような、都市伝説のようなものがあった。
実際に、自分のドッペルゲンガーを何度も見たことがあるという人だったり、その日に自分が狙われているということを予期していて、実際に暗殺された人もいたりした。
それらの代表的な例として、アブラハム・リンカーンであったり、芥川龍之介であったりしたのだ。
そんな、
「もう一人の自分」
という夢は定期的に見ている気がする。
最初に見たのは、小学生の頃だっただろうか? もちろん、そんな頃に、
「ドッペルゲンガー」
などという言葉を知るわけもなく、もちろん、
「ドッペルゲンガーなるものを見ると死ぬ」
などという都市伝説を知る由もない。
それでも、きっと、心の中で、
「もう一人の自分」
というものが存在してれば、これほど怖いものはない。
と感じるに違いない。
それがどれほどの恐怖なのか、実際に、
「覚えている夢というのが、もう一人の自分を見た夢だ」
という自覚があるのだから、それだけ、怖いものだということに変わりはないに違いない。
実際にドッペルゲンガーというものが、どのようなものなのかというというのを初めて知ったのは、高校生くらいの頃だっただろうか。
それまでは、
「ただ、自分がもう一人いれば、怖いだろうな」
という漠然としたものだったはず。
しかし、夢に出てきたもう一人の自分は、まるで、昔の。
「口裂け女」
のように、見てしまうと殺されてしまうという恐怖を味わっていたのかも知れない。
ひょっとすると、昔の小説にあった二重人格ものの、
「ジキルとハイド」
という話も、
「ドッペルゲンガー」
というものの発想が、原点になったのかも知れない。
そう思うと。子供の頃に漠然と怖いと思った、
「もう一人の自分」
というものの存在も、信憑性があるといっても過言ではないだろう。
大人になっていろいろ勉強してみると、
「夢というのは、実際には、睡眠時間中に、必ず見ているものだ」
と言われているということを知って、
「なるほど、自分の発想もまんざらでもない」
と、順平は感じるようになった。
それから、
「いい悪いは別にして、科学的に証明されていないことも、自分の考えた通りなのだろうという発想になってきた」
と思うのだった。
もちろん、それだけの信憑性は自分の頭の中には必要だが、それを感じるだけで、それだけのことが頭の中に芽生えてくることを知ったのだった。
そんな状態を考えていると、一つ気になっているものがあった。
それは、
「デジャブ」
という現象で、この言葉はほとんどの人が聞いたことがあるだろう。
ただ、
「どういうものなのかを説明しろ」
と言われて、安易に説明できるものではない。
というのも、何分曖昧だからで、実際に解明されていないというのも、
「現象自体が曖昧なことからではないか?」
と考えられるからではないだろうか?
実際にいわれていることとして、
「一度も見たこともないはずのものを、以前にどこかで見たことがあるかのように錯覚すること」
というのが、一般的に言われていることである。
だが、実際に、デジャブというものを感じたことは、たぶん、誰にでも一度はあるだろう。
きっとそれに対して、人によっては、自分で勝手に解釈することで、自分なりに納得できるものとしている人もいれば、
「科学者や心理学者が解明できないことを、一般人である自分たちに解明できるはずなんかない」
と思っている人も多いだろう。
どっちが多いかと聞かれると、正直分からないが、どちらも、
「一定数はいるのではないか?」
と考えられるのであった、
順平は何となくであるが、自分なりの考え方を持っていた。
何となくというのは、ハッキリとした、学説というべきものではなく、ハッキリとしない曖昧なものだという意味で、発展途上と言えばいいのか、何かきっかけがあれば、結びつけることができるというようなもののように感じられた。
一言でいえば、
「辻褄合わせなのではないか?」
という考え方だった。
というのは、そもそも、デジャブ現象というものが、問題ではなく、
「人間の頭の中には、基本的に、初めて見るものには、初めて見るという根拠があるものだ」
と考えていた。
その根拠が見つからないということは、
「必ず、前にどこかで見たり聞いたりしたはずだ」
という、
「逆の発想から来るものが、デジャブという現象ではないか?」
と考えるようになると、
「辻褄合わせだ」
と考えることが、間違いではないと思うように感じるのだ。ある意味、
「減算法だ」
といってもいいのではないだろうか?
要するに、減算法だから、曖昧なのだ。