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痛み分けの犯罪

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 ということで、実は、彼らが眼をつけたのが、殺された間宮だった。
 その理由というのは、
「混血だ」
 ということであったのだ。
 賢明な読者の方は、
「卑怯なコウモリ」
 という言葉を聞いたことがあるだろうか?
 これはイソップ寓話の中のお話であるが、
「昔、獣と鳥が戦争をしていた時のことであり、その時に、コウモリというのは、獣に向かっては、自分の身体には、体毛が生えているということで、自分は獣だといい、逆に、羽根が生えているということで、自分は、鳥だといってうまく立ち回り、逃げていた」
 というお話である。
 しかし、
「この後、時間が経つにつれ、戦争は次第に落ち着いてきて、最後には和解が成立し、戦争は終わった。その時、コウモリのことが問題になり、獣からも、鳥からも、やつは卑怯者だと言われ、鳥にも獣にも姿を見せることができなくなってしまたコウモリは、暗い洞窟の中で、人知れずに暮らさなければいけなくなった」
 というお話であった。
 つまりは、
「周りからハブられてしまい。コウモリは暗く、ジメジメした洞窟で、生息することしか許されず、結果、目が見えなくなってしまった」
 ということになるのだろう。
 ただ、このお話は、もちろんのこと、寓話ということなので、事実ではないだろう。
 フィクションというお話を考えるうえで、
「コウモリというのは、暗くジメジメした、寂しいところで暮らすことを余儀なくされてしまった」
 ということの、
「理由付け」
 を考えると、このような、
「卑怯なコウモリ」
 というお話ができあがったということになるのだろう。
 このお話は、いろいろな話として、使用される元ネタになっていることが多い。それだけに、現実のお話に、置き換えることもムリなことではなく、実際に、外人組織に、利用されることになったのだ。
 混血というのは、ある意味、肩身の狭い思いをしていることが多いかも知れない。
 戦後すぐであれば、その混乱から、混血児が多かった。
 もちろん、社会問題となっていて、混血児にとっては、
「溜まったものではない」
 という時代であったが、時代が落ち着いてくると、社会から受け入れられるようになってきたことだろう。
 だから、そんなに、当時は混血児が珍しいということはなかったが、今の時代では、なかなかそうもいかない。
 さらに、実質、
「人種差別」
 などというのは、基本的に、コンプライアンスなどの問題から、
「差別してはいけない」
 と言われるようになり、そこまで問題になることはなかった。
 しかし、混血となると、別であった。
 一部の人たちだけなのかも知れないが、
「混血というものを、恐れているというのか、気持ち悪がっている連中がいる」
 ということであった。
 それは、気持ち悪がる連中にも、それがなぜなのかということが分かっていなかったのだ。
 要するに、自分の発想の中で、
「説明はつかないが、ただ気持ち悪く思う」
 と、感じている本人にも、その理由が分かりかねていたが、その理由を解き明かす一つのキーワードとして、
「卑怯なコウモリ」
 という話が出てきたというのは、何ともいえない、皮肉なことだったのだ。
 そういう意味では、このお話は、
「昔からいわれていることで、今後もずっと言われ続けることになるに違いないのではないか?」
 ということであった。
 コウモリという動物は、目が見えないということであるが、そのために、超音波を出して、
「まわりの障害物に反応し、物体の存在を知る」
 ということであるが、それだけ、
「コウモリというのは、音に対して特化しているので、耳はいいということになるのだろう」
 ということになる。
 ただ、これは、ほとんどの動物にいえることではないだろうか?
 あくまでも、
「人間と比較して」
 ということになるのだが、どの動物も、何かに特化しているという風に見えてくるのではないだろうか?
 例えば、犬であれば、
「嗅覚が、人間の数百、いや数千倍発達している」
 と言われてみたり、ネコであれば、
「暗闇で見える目であったり、高いところに飛び移るだけの飛翔力であったり」
 と、とても、人間にはまねのできないものを持っているのではないだろうか?
「卑怯なコウモリ」
 というものも、確かに、寓話の中では、
「卑怯なもの」
 ということで描かれてはいるが、鳥や獣などのような動物たちに比べて、特化したものを持っていなければ、みすみす殺されるのを待つだけになるではないか。
 何とか生き残ることを考えれば、
「何か、自分たちが他の動物に特化したもの」
 ということで考えたのが、あの方法だったのではないだろうか?
 それを考えると、あのような、
「卑怯なコウモリ」
 のような、方法であったとすれば、
「秘境だ」
 といって、断罪するっことが果たしてできるであろうか?
 そんなことを考えると、コウモリだけではなく、人間も、他の動物に特化したものはない。そういう意味では、
「頭を使って、勝ち残るしかない」
 と考えると、この時のコウモリのように、
「いかに危機から逃れるか?」
 ということになるのであろう。
 昔からいわれるように、
「神は二物を与えず」
 という言葉があるが、なかなか、武勇も、頭脳も兼ね備えているというのは、難しいものである。
 少なくとも、努力をしないと叶えられないもので、その努力というものも、少なくとも、柔軟な発想ができなければ難しいだろう。
 ということになると、頭脳を使えないと、どちらもできないということになり、そのかわり、人間のように、五感が突出していることがないため、その方法を創意工夫により手に入れるしかないということになる。
 だが、これは、
「逆も真なり」
 ということでもあり、
「人間は、何も特化したものがない」
 と思い込んでいるのは、それを補うものが備わっているからであり、
「意外とその特化したものを見逃しているのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか。
 というのは、
「策を弄する人間は、意外と同じことをされるということに、気付かないものだ」
 と言われている。
 実際に命中することなく、紙一重のところに命中している場合に、気付かないということも往々にいてあるもので、そこに、なかなか気づかずに、
「灯台下暗し」
 ということになるのだろう。
 今回の犯人に対して、このようなコウモリを発想したのは、
「被害者が、混血だ」
 ということだった。
 迫田刑事は、事件の途中から、違和感のようなものを感じていたが、その違和感がどこからくるものなにか、正直分からなかった、
 何しろ、このビルの構造と、さらにそれをややこしくする、管理者のずさんな計画が、話をややこしくしているように感じたのだった。
「そもそもの何が悪いというのか?」
 まずは、
「最初から一階を店舗にするという計画をしているのであれば、店舗内部、あるいは、その近辺にトイレを作っておかなかったのか?」
 という、ある意味、
「基本中の基本」
 ともいうべきことではないだろうか?
 さらに、もう一つは、
「トイレがない」
 という問題が発生した時、その時点で、
作品名:痛み分けの犯罪 作家名:森本晃次