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痛み分けの犯罪

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 ということになる。
 それが、かつての、
「戒厳令」
 であったり、
「特高警察」
 なるものだったのだ。
 しかし、今は、アメリカから押し付けられた民主制とはいえ、
「国民の権利は、永久に保証される」
 ということが、憲法で決まっているので、治安維持ということを最優先にはできない国家になってしまっているのだ。
 確かに、個人の自由は大切で、恒久的なものであるのは間違いないが、それをいいことに、
「法律を利用しよう」
 という輩が増えてくる。
 特に今のように、
「個人情報保護」
 であったり、
「コンプライアンスの問題」
 などは、そもそも、日本国が民主国家になった時点で、最初からあってしかるべきものではないのか。
 それだけ、民主国家と言いながら、まだまだ発展途上だったこともあって、実際に、
「個人を守る」
 ということがどういうことなのか分からない間に、
「悪い奴ら」
 に法律を利用されたり、詐欺のようなものが、横行したりということになる。
 だからこそ、今になって、いろいろなプライバシーや、モラルと言った。
「民主主義としては、基本となるべきもの」
 が、問題になる時代がやってくるのだった。
 つまり、民主国家というのは、反政府組織のようなところから見れば、下手をすれば、
「穴だらけ」
 ということで、
「個人の自由」
 ということを隠れ蓑にして、組織自体も、個人であるということを考えれば、ある意味、
「何でもできる」
 といっても過言ではないだろう。
 確かに、
「推定無罪」
 であったり、
「疑わしきは罰せず」
 という考え方は、
「冤罪を生まない」
 という意味では、一定の効果はあるかも知れない。
 しかし、もっと厄介なこととして、
「被告人の利益に従う」
 ということであるから、確かに冤罪を生みにくくするという意味では一定の評価はあるだろうが、
「実際に、被害者がいるわけで、被害者のことを一切考えていない」
 という意味で、どのような弊害があるかということである。
 犯罪というものが起こった場合に、
「被害者と加害者」
 というものがあり、それが、起訴され、裁判となると、
「原告と被告」
 ということになる。
 ただ、疑わしくは罰しないとか、推定無罪などというものが存在すれば、
「起訴に持ち込むこともできない」
 ということになるのだ。
 せっかく警察が捜査して、ある程度の証拠をまとめたとしても、
「裁判を起こしたとしても、有罪に持ち込むことは難しい」
 と言われることもある。
 もちろん、弁護士に有能な人がいたりすれば、裁判というのも、
「相手があることだ」
 ということなので、そう簡単に起訴に持ち込んだといっても、勝てるという保証があるわけではあない。
 明らかに検察側に起訴に持ち込むだけの材料がなければ、
「悔しいが、不起訴にするしかない」
 ということになる。
 不起訴となると、被害者側は、完全に、
「泣き寝入り」
 ということになる。
 中には、事件によっては、加害者側が、示談を持ち出して、被害者側の経済状況に揺さぶりを掛けたりして、起訴を取りやめるように、被害者側に迫ったり、下手をすれば、脅迫を用いることだってあるだろう。
 いろいろな方法で、弁護士側は揺さぶりをかけてくる。
 しかも、裁判を起こしても、
「被害者側には勝ち目はない」
 あるいは、
「起訴しても、被害者側の将来に対して、不利になる」
 さらには、
「裁判での証言やその他が世間にバレてもいいのか?」
 などという脅しなどがあって、被害者側の気持ちが揺らいだことで、裁判を起こさない方に傾くこともあるだろう。
 しかも、最後の脅し文句として、
「日本という国は、疑わしきは罰せずなので、中途半端な証拠であれば、通用しない」
 などということを言われてしまっては、被害者側も、
「告訴を取りやめる」
 ということしかないのだろう。
 そういう意味で、
「推定無罪」
 や、
「疑わしきは罰せず」
 というのは、加害者側にうまくできていて、後になって後悔した被害者側が、今度は、復讐という形の、
「新たな犯罪」
 に手を染めるということにならないとも限らないだろう。

                 コウモリ

 今回の事件において、防犯カメラの映像において、
「実際に犯人と思しき人物画、何となくではあるが映っている」
 という認識を鑑識は抱いていた。
 殺された男には、実際に殺されるだけの動機があるようだった。
 これも、証拠とするには、決め手には欠けるが、どうも、
「殺されても仕方がない」
 という意識があったようだ。
 というのも、殺害された男は、例の、
「外国人犯罪集団」
 と言われる人たちと、かかわりがあるかのように言われているようだった。
 ただ、曖昧なところがあり、間違いないというところまでは、一歩も二歩も、遠いところがあるということだった。
 しかし、
「それを決定づけるような証言をした人物がいる」
 ということが、実しやかに囁かれているということを聞いたことがあった。
 そんなことを考えながら、聞き込みを行っていると、
「どうも殺された間宮という男が、外人たちからは、徹底的に嫌われている」
 ということ、さらに、
「日本人からも嫌われている」
 というのであった。
 その度合いというのは、圧倒的に、外人からの方がきつい。
 それは、正直に見た感じではなく、
「日本人というものが、お花畑にいる、一種の平和ボケをしている人種だからだ」
 ということであった。
 つまり、日本人は、法律だけではなく平和主義であった。
 だから、騙されることを分からない。特に外人たちのような連中からは、育った環境や、考え方から、日本人は、ついつい信じてしまう。
 特に、政府から、
「外国人擁護:
 というような政策を取られることで、
「外国人は大切にしなければいけない」
 という考えになり、さらに、
「外国人のいうことを素直に聞かなければいけない」
 と、まるで、小学校の先生に言われているかのような感覚になるのだろう。
 本当は、聞いたうえで、そこで自分が判断をしないといけないはずだ。そうでないと、もし、後悔することになれば、その後悔の持っていき場所に困るからである。
 平和ボケをしていると、
「政府が擁護しているのだから、安心だ」
 と、人を信じることが、美徳だと思い込んでしまい、まるで、
「政府から、洗脳されてしまったかのようだ」
 ということになるのだった。
 そう考えると、
「外国人は大切にしなければいけない」
 と感じたり、
「仲間だと思って接しなければいけない」
 などと思うのだが、相手は、その何十倍も何百倍も、したたかなのだ。
 それを思うと、日本人というのは、騙す方からすれば、
「これほど騙しやすい人種はいない」
 ということであろう、
 心の中でだったり、自国内であれば、いくらでも、日本の悪口などを言えるのだろうが、ひとたび日本に来て、
「適当に煽てておけば、すべて、こっちの思うつぼ」
 というくらいに感じていることだろう。
 それを思うと、
「これほど、扱いやすい国はない」
作品名:痛み分けの犯罪 作家名:森本晃次