痛み分けの犯罪
ただ、諸刃の剣といっても、少し言葉のニュアンスであったり、正反対のものの比較に使う時は、言葉の使い方に気を付ける必要があったりするのではないだろうか。
例えば、一つの話として、
「長所と短所」
という言葉を思い浮かべた時であった。
それぞれを比較した時、少し意味の違って感じる言葉が思い浮かぶのだったが、一つとしては、
「長所は短所の裏返し」
という言葉であり、もう一つは、
「長所と短所は、紙一重」
と言われる言葉である。
どちらも言い回しは似ているが、よく見ると、意味はまったく正反対に思える。
前者は、確かにその通りだと、誰もが思うだろう。
「10人が10人、その通りだと思うこと」
であり、何といっても、そもそもがまったくの正反対だと思えることなのだから、理論的に、間違っていることを言っているわけではない。
じゃあ、後者の方はどうだろう? まったく正反対のものだと思うものを、正反対だと感じるはずのものを、紙一重だと考えることができるかということである。どこか矛盾しているようだが、この考えも、
「言われてみれば」
という但し書きがつくかも知れないが、ほとんどの人が、賛成とはいかないまでも、違和感がなく感じられるというものではないだろうか?
というのも、
「確かに、理論的に考えれば、矛盾しているのであり、逆に理論的に考えないのであれば、矛盾しているとは言えないのではないか?」
ということであった。
つまり、紙一重というのを、理論的に考えるのではなく。どちらかというと、
「その二つの位置」
と考えればいいのではないか。
要するに、それぞれに、距離感を感じるから、矛盾しているのであって、お互いの位置関係が、ある程度固定されているものだと考えれば、理屈に合わないことはない。
固定といっても、その場所に限定されるものではなく、その時々の精神的に存在するはずの位置だと考えれば、何も、
「固定という概念が、不動のものだ」
と思う必要はないであろう。
それぞれが、
「離れているものであり、距離が遠いものだと思い込んでいることで、隣にあっても、そのことに気づかないことで見逃してしまう」
と言えるのだとすると、ことわざにある言葉の辻褄もあってくるというものではないだろうか?
そのことわざというのは、言わずと知れた、
「灯台下暗し」
というものであり、また、もう一つの考え方として、
「石ころのような存在」
というものの、証明にもなるということであった。
疑わしきは罰せず
なぜ、被害者が殺されなければならなかったのか?
要するに、
「動機」
というものが何で、そして、殺害方法など、どのような計画だったのか、もちろん、そういうことをこれから捜査を行うのだが、まずは、
「犯人が誰なのか?」
ということの確定が必要だった。
被害者の身元が分かり、その人間に対して恨んでいる人をピックアップし、数人の容疑者の中から、アリバイや、動機の信憑性を確認し、そこから、犯人を絞っていくのが、仏の犯罪捜査というものではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「聞き込みなどの地道な捜査」
と、
「防犯カメラの解析」
であったり、犯人像を割り出すという、
「プロファイリング」
という操作方法。
前者を、
「昭和の、人海戦術や力業による、足で稼ぐ捜査」
と言われるものであり。後者の場合は、
「平成の、いわゆる科学捜査」
と言われるものを融合する形の捜査が並行して行われるだろう。
いくら犯人に対して動かぬ証拠である防犯カメラの映像であったとしても、いかにごまかすかということを、弁護士側も考えているだろうから、裁判の際の検察側の材料としての、犯罪が行われた心理的、精神的な証拠固めというのも、当たり前に必要だということである。
まずは、昭和の捜査であるが、殺された男の身元は、間宮隆二と名乗っていたということであった。
ハーフ絵はあるが、見た目は外人、名前は日本人になっているので、国籍は日本人ということであった。
そういう意味で、日本人として、生活をしていて、
「ええ、本人は日本人のつもりでしたよ。言葉は訛りのある日本語を喋っていたので、完全に、
「外人が日本人になった時の典型的な感じで、確か関西訛りだったと思います。本人が、関西に住んでいたのかどうかは知らないですが、ああいう、関西弁のやりとりを聞いていると、正直、私は胸糞が悪くなりますね」
といっていたのが、被害者の住んでいるアパートの住人だった。
「仲が良かったんですか?」
と、刑事が聴くと、
「いいえ、こっちは、そんなつもりはないですが、あいつがやたらにこっちに靡くような、へりくだった態度を取るので、利用してやったというくらいですかね。少なくとも対等だなんて思ったことはありませんよ」
というのだった。
確かに、K市というところは、他の地域にないほどの憎悪のようなものを外人に持っている。
警察が外人どもに対しての組織を形成しているということを、本当は極秘のはずなのだが、何やらウワサとして漏れているのか、一部の、
「外人嫌悪集団」
というべきか、そんな連中の存在が、市中の一部に、ウワサとして、実しやかに囁かれるようになったのだ。
警察の方も、別に隠す必要などさらさらないと思っているので、ウワサを無理に打ち消そうとはしなかった。
むしろウワサが広がって、それが、
「犯罪の抑止に少しでもつながればいい」
という考えもあるが、まず期待はできないだろう。
どうせ、犯罪グループも、
「警察に、そのような特殊組織があったとしても、犯罪をやめる気はないだろう。若干の用心はするだろうが、犯罪を思いとどまるようなら、最初からしない。しょせんは、外人の考えていることを、日本人に分かるわけもないということを、外人側も、日本側も思っている」
ということなのだろうということであった。
そもそも、犯罪の形態が、日本とは違っている。具体的には、文字にして起こすというのは、少し難しいところであったが、明らかに日本人であれば、危ないと思い、思いとどまるようなことを平気でやってみたり、日本人なら、ここは突っ走るということを、思いとどまってみたりと、そのパターンに、
「外人ならでは」
というものがあり、それだけに、捜査も難しく、多様化しているということで、特殊部隊が設立されることになったという。
やつらが、
「日本における犯罪」
というものを研究し、わざと日本流の捜査を攪乱するような方法を考えているのか、それとも、
「あくまでも、自分たちの犯罪というものを貫いている」
ということでの犯罪なのか、正直分かっていない。
しかし、多様化してきた犯罪が減ることはなく、むしろ増えている。しかも、犯罪のパターンも多様化していて、あたかも、
「日本の捜査を煙に巻く」
というような、まるで、日本をあざ笑っているかのような犯行が行われてきたのであった。
日本という国が、
「外国から舐められている」
というのは、周知のことであり、日本政府を見ていれば、誰にだって分かることだ。