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痛み分けの犯罪

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 それを考えていると、犯人がすべてを終えた時点で、警察が動くことになり、まったく警察は不利だといってもいい。
 しかし、逆も言えるのだ。
 というのは、
「犯人にとっては、すべてが終わっているわけである。ということは、事件を振り返って、後悔に値することをしていたとしても、後戻りはできない」
 ということだ。
 犯行を犯した時に、何か致命的なことを犯してしまったとしよう。
「例えば、証拠を残してきた」
 あるいは、
「犯行を見られた」
 などということになれば、今度は、時間を戻すことのできない犯人としては、
「事件はまだ終わっていない」
 ということになり、その失策を覆い隠すために、さらなる犯行を犯さないとも限らないだろう。
 そうなると、それこそが、
「二次災害」
 とでもいうかのようなものを生み出し、下手をすると、さらに、泥沼に入ることを予感させるのかも知れない。
 この関係を、以前、迫田にとって先輩にあたる刑事が、面白いことを言っていた。
 お世辞にも、
「真面目な刑事」
 と言えないという意味で、
「不真面目ではないが、せめていうとすれば、風変わりな刑事」
 という意味で、面白い人がいた。
 その人がいうのは、
「犯人と警察の関係というものは、別れが近い時の、男女の関係に似ている」
 ということを言っていた人がいた。
 まわりの人は、
「また、変なことを言い出した」
 と思っていただろうし、迫田自身も、その時は、まわりと、ほぼ変わらないという感じであった。
 だが、他の人は、ほとんどが、最初に、
「またロクなことを言い出さない」
 という思い込みからか、次第に気持ちが離れていき、最後の方では、
「何も言わない」
 というくらいになっていたのであった。
 だが、迫田の場合は、他の人と違い、少しずつ自分がその話に引き込まれてくるのが分かってきて、それが、自分を、
「天邪鬼なんだろうな?」
 と感じさせるようになったのだ。
 しかも、この天邪鬼というのは、
「勧善懲悪」
 という考えの元に成り立っているように思えてきたから、面白いものだった。
 しかも、その中には、
「人と同じでは嫌だ」
 という思いがあった。
 勧善懲悪というと、基本的には、そんなにたくさんのパターンがあるわけではない。。
 テレビ番組でいえば、時代劇などの、
「水戸黄門」
「遠山の金さん」
「大岡越前」
 などの、
「定番の勧善懲悪」
 であるが、逆に、現代版とどこか似ている形で作られた、
「必殺シリーズ」
「大江戸捜査網シリーズ」
 なども、いわゆる勧善懲悪に、さらに、
「勧善懲悪たる形」
 のようなものが含まれているということになるのだろう。
 勧善懲悪として、形をしっかり求めるとすれば、それは現代劇の方なのかも知れない。
時代劇というものは、元々、悪というものの定義が決まっている。何といっても、その時代の事実を知っている人は誰もいないわけで、どんなに史実に則って書かれたとしても、それは、フィクションでしかないのだ。
 つまり、勧善懲悪というものが、時代劇では幻であり、
「どんなに真実を追い求めようとしても、そこには、事実はないのだ」
 ということである。
「真実と事実の何が違う」
 というのかということを考えると、
「ノンフィクションが事実であり、フィクションは真実であることから、事実を導き出す力になるものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、犯罪捜査を、
「男女の関係に結び付けて考える」
 というのは、ある意味、
「理に適っている」
 といってもいいのかも知れない。
 事件の方では、鑑識からの方からの調査報告があった。一緒に初動捜査に加わった鑑識官が、今回も捜査会議に参加していて、その内容が発表された。
 元々、
「死体の発見が早かった」
 ということで、あの現場で、初見として言われていたことのほとんどが当たっていた。
 凶器は胸に刺さっているナイフで、死亡推定時刻も、死んでからすぐだったというくあらいのものだったのだ。
 そこは、捜査員と鑑識の間でもブレはなかった。
 最初は、考え方としてであるが、
「被害者をもっと前に殺害しておいて、夜陰に紛れて、ボイラーの近く、つまり非常口の向こうに隠しておけば、死亡推定時刻をごまかせる」
 ということも、捜査員だけではなく、鑑識の方でも、それくらいのことは分かっていたはずだった。
 一つ言えることは、
「犯行は、非常ドアの向こうで行われたんだろうな?」
 ということであった。
 犯人が誰か分からないので、何とも言えないが、
「あのビルの構造を知っているのであれば、当然、防犯カメラの位置くらいは分かっているだろう」
 と考えられることであった。
 今の時代は、防犯カメラの普及が激しくて、本当に昔のことわざにある、
「壁に耳あり障子に目あり」
 という言葉を彷彿させるものであった。
 防犯カメラというのは、読んで字のごとしで、
「犯罪の抑止に使う」
 ということである。
 以前は、防犯カメラというと、
「会社や自治体のような団体が設置している」
 というイメージが強かったが、今では、本当に、
「どこで何が狙っているのか分からない」
 といってもいいくらいだ。
 それを鮮明にするようになったのは、車関係の事件や事故が増えたということもあるだろう。
 特に、数年前くらいから大きな問題となってきた、
「あおり運転」
 と言われるもの。
 何に不満があるのか、普通に走っている車を煽ってみたり、中には前をせき止めて、入れないように停車させ、車を降りて、バコバコに相手の車を蹴とばして、自分のイライラを解消するなどという、
「猟奇的な運転手」
 増えてきたことで、今ではほとんどの車に、
「ドライブレコーダ」
 が積まれているのであった。
「何かを言われても、証拠が残っている」
 ということで、犯罪の抑止として、活躍するだろうと思われていた。
 しかし、カメラに映っていようが関係なく、苛立ってしまうと、抑えが利かなくなるのであった。
 逆にいえば、
「ドライブレコーダで抑止になる人であれば、ドラレコなどなくても、相手にキレたりなんかしない」
 というものであり、
「ドラレコがあってもなくても関係のない人間が、結局暴れるだけなんだ」
 ということであった。
 ただ、抑止にはならなくても、犯人の特定にはつながる。どこの誰だか分からなかったものを、警察に証拠として提出すれば、
「犯人特定」
 さらに、
「被害状況の特定」
 として、
「動かぬ証拠」
 というものがあることで、犯人は、言い逃れのできないところに追い詰められ、ドラレコは、犯人にとっては、天国と地獄だといってもいいだろう。
 そんな、
「動かぬ証拠」
 なるものは、このビルにおいては、
「防犯カメラの映像」
 ということになる。
 その映像を見ることで、
「そのことが証拠おとなる」
 という場合と、逆に、
「犯人のアリバイを証明してしまう場合」
 と二つがあるのだ。
 そういう意味では、
「諸刃の剣」
 と言えばいいのだろう。
作品名:痛み分けの犯罪 作家名:森本晃次