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悪党選手権

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「発掘調査」
 という状況になってきたのは、何か皮肉なことだったようだ。
 それでも、出てきた発掘資料は、学術的にも大切なもののようで、今では、全国の考古学者の、
「注目の的だ」
 ということになっているのだという。
 それを考えると、
「発掘調査というものが、なぜに大切なことなのかということを、もう少し学生時代に勉強しておけばよかったな」
 と思っている人は結構いるだろう。
 それを思うと、今の発掘調査団というのが、まるで、
「幼稚園児の砂場遊び」
 であるかのように見えて、それだけ自分の発想が子供じみているものなのかと思っている人も、意外といるのかも知れない。
 今の時代にはなかなかいないであろう、
「頑固おやじ」
 なる人種も、実は一定数いたりするのだ。
 昔の頑固おやじというと、
「よくマンガなどに出てきたような人で、いつも和服を着ていて、趣味といえば、庭で、盆栽いじりというものをやっている人たち」
 そして、
「縁側で、本を読みながら、一人で囲碁を打っている」
 というような姿が思い浮べられる。
 そして、空き地の近くに家があり、子供たちが野球をしていて、ホームランとなったところに、その家があることで、
「よくガラスが割られている」
 というような構図が見られる。
 そんな光景を見ていると、
「いかにも、昭和」
 というものを思わせる。
 今では考えられないような光景が、あまりにも多いではないか。
 特に、
「そんな野球ができるような公園が、今のどこにある」
 というのか?
 実際に、空き地などというものは、どこにもない。昔は空き地が児童公園の代わりになっていたが、よくマンガで見かけるものに、
「土管」
 というものがある。
 三つほど積み重ねられているところで、よく、そこに入ってかくれんぼをしている姿があったのを思い出すのだった。
 そんな土管も、今はほとんど見ることもない。
「土管って、何ですか?」
 と言われるのが関の山であろう。
 さらに、頑固爺さんなるものも、まずいなくなった。
 昔のように、
「こらー」
 などといって子供を追いかけまわしったりすれば、すぐに、父兄や警察がやってくることになるだろう。
 それに昔のような、
「庭つきの家」
 などというのは、日本家屋の家で、残っているところなど、ほとんどないに違いない。
 実際には、
「老朽化」
 してしまい、今の時代のような、
「異常気象」
 で、耐えていくのは、難しくなっていて、建て替えを余儀なくされる家も少なくないことだろう。
 実際に、建て直した家屋も、次第に、まわりにマンションなどが建ち並ぶことで、都心部では、一軒家の姿も見なくなる。
 子供や孫は、独立して、マンション住まいが当たり前のようになっていて、
「今の時代では、昭和のような光景は、まず見られない」
 といってもいいだろう。
 だが、年寄りの中には、そんな昔の光景を、今でもよく夢に見る人もいたりする。
「もう、60歳を過ぎているのに、最近になってよく見る夢というのは、昭和の頃、しかも、自分が小さかった頃の、まだ、舗装されていない道が多かった時代の、垣根だったり、庭の盆栽だったりする」
 と思っている人がいる。
 年齢的には、まだまだ60歳を超えたくらいなので、
「そんなに老け込む年ではない」
 と言われるのだろうが、最近では、そんな思いが募っているとでもいえばいいのか、
「10年くらい前の記憶よりも、子供の頃の記憶の方が近い気がする」
 という、
「明らかに錯覚だ」
 と思うようなことが普通にあったりするのだった。
「記憶が時系列になっていないということが、果たして、錯覚だといえることなのかどうか、自分でもハッキリと分からない」
 と感じていたのだった。
「年を取ると、子供に戻る」
 などという話をよく聞く。
 確かに大人になると、老化現象が早まってくる。実際に身体が自分の想像以上に動かなくなるのは、50歳を超えてくらいなのかも知れないが、
「肉体的な老化というのは、25歳くらいから始まっている」
 と言われているではないか。
 そのことで思い当たることがあった。
「20代までの頃に比べて、30代というのは、かなり早く感じられる。そして40代になるとさらに早い」
 という話であった。
 いろいろな要因が考えられるだろう。
 若いうちは、
「何でもできる」
 という思いはあるが、若さゆえに、何をしていいのか分からないという考えから、実際に行動することを怖がっていたりするものであった。
 それに、
「何でもできる」
 という考えは、その言葉の上に、
「いつだって」
 という言葉がついてくるだろう。
 いつだってできると思うと、そこに甘えができて、
「できる時にやらなければ」
 という気持ちはほとんどないといってもいい。
 だからこそ、
「いつだって」
 という言葉がつくのだが、老人の戒めとして、
「できるということと、やるということは違う。できることでも、やろうという気力がなければ、いつだってできるという考えは、いつであってもできないといえるのだ」
 ということがいわれるだろう。
 しかし、若いとその言葉の意味が分からない。
 年を取ると、若かりし頃の自分を顧みて、そう考えるのだろうが、それを信用しない人も結構いるのだ。
 なぜなのかと考えた時、一つ考えられることとして、
「子供が親になった時」
 というものを感じた時ではないだろうか?
 この思いは、子供の頃に培われたものではないだろうか?
 というのは、子供の頃、よく親から叱られていたという思いがあるからで、
「勉強しなさい」
「お手伝いしなさい」
 などと、教育という名目で、子供にあれこれ、指示をしているのだろうが、子供としては叱りつけられているとしか思えない。
「親だって、子供の頃があっただろうに」
 と考えると、親が子供を叱りつけているのを見ると、
「実に他人事で、ヒステリックに見える」
 つまりは、親である自分たちが、子供を、
「教育する」
 という名目で、説教しているようには思えない。
 それよりも、
「自分の世間体を重んじて、子供に恥ずかしいことをされたくない」
 という、
「自己中心的な考え」
 それが、
「脈々と続いてきた先祖からの考えだとして、子供である自分には分かる」
 と思うと、そのあざとさに腹が立ち、自分だって子供の頃、親の理不尽さに苛立っていて、たぶん、自分は、
「あんな大人にはなりたくない」
 ということを考えたに違いない。
 と言えるのではないだろうか?
 それを自分が大人になり、子供を持ち、自分が親という立場になる間に、忘れてしまったということなのか、実に嘆かわしいことである。
 そんな大人になると、今度は、子供の頃のことを、どんどん忘れて行ってしまう。
 しかし、これは人が行っていた話だったのだが、
「ある程度の年齢に達すると、子供の頃のことを、急に思い出すんだ。それも、それまでほとんど思い出したことがないのにだよ。そして、その時になって、思い出した子供の頃のことが、まるで昨日のことのように思い出してしまうと、それを毎日のように思い出すようになる」
作品名:悪党選手権 作家名:森本晃次