抑止力のための循環犯罪
「四日市ぜんそく」
「水俣病」
「イタイイタイ病」
などと言われる、公害問題であった。
これらが、大いに問題になったのは、
「被害者が出ているにも関わらず、工場側が、自分たちには関係ないとばかりに、ロクに調査もせず、公害とまき散らしているかも知れないと思いながらも操業を辞めなかった」
という、一種の、
「確信犯」
であった。
さらに、もっとひどいのは、
「自分たちが原因であると分かっているのに、訴えられないのをいいことに、辞めなかったところもある。根拠は自分たちで調べて分かっていたのだ。しかも、裁判になっても、自分たちには責任がないとばかりに、正当性を訴えようとする」
というのが、悪質だったのだ。
いくら正当性を訴えようとも、自分たちが分かっていて、住民が苦しんでいるのを見て見ぬふりをしただけで、推定有罪だといってもいい。
法的制裁がなくとも、世間から信用を失い、操業がままならなくなった会社もあったかも知れない。
どうせ、そういう会社は自転車操業をしていた可能性がある。
そう思えば。信用を無くした企業は、自然に消えていくことも考えられるだろう。
ただ、その時に一番最初に被害を受けるのは、末端の、
「零細企業」
である。
彼らは、上の会社が招いた信用問題のせいで、受注が受けられなくなったりして、それこそ、自転車操業で何とかその日を乗り切ってきたものが、信用を失えば、もう、ひとたまりもないというものだ。
それを思うと、
「社会が大きくなればなるほど、被害を受けるのは、何ら悪いことをしているわけではない。末端の小さなところだ」
と言えるのではないだろうか?
それでも、大きな会社は生き残る、上の会社から見れば、下請け孫請けなど、
「小さな会社が潰れようがどうしようが、どうせ潰れてもまた新しく出てくるのだから、気にする必要などない」
と感じていることだろう。
それが、
「社会派小説」
にとっても、
「ごちそうだ」
と言えるのではないだろうか?
末端の会社の悲哀と、大企業と、政治家の癒着とが、人間関係の中で絡み合ってくるという小説は、結構売れるのではないだろうか?
この時代の社会派小説が流行ったという理由の一つに、
「テレビ化や映画化がしやすい」
というのがあるのではないだろうか?
ちょうど時代邸にもテレビの普及が大きく、
「一家に一台のテレビ」
というのが当たり前になっていた。
次第にカラー放送も始まり、社会派というのは、昔の探偵小説の、
「トリックなどを用いた作品」
に比べれば、そこまで特撮などを用いる必要もなく、もっと言えば、
「大人受けするドラマだ」
と言えるだろう。
どうしても、昔の探偵小説は、子供向け的なものが多い。
探偵小説作家の晩年は、
「子供向けのジュブナイル作品というものに走った」
という先生も多かった。
「少年探偵団」
などのような作品もその一つなのかも知れない。
だが、そんな社会派小説も、次第に、
「安楽椅子探偵もの」
に変わっていった。
安楽椅子探偵というのは、
「探偵として、事務所を構えているわけではなく、元々は他の職を持っているのに、探偵の真似事のようなことをする場合をいう」
と言えるのではないだろうか?
特に、テレビドラマの、
「二時間サスペンス」
的な番組に多かった。
さらに、それらの番組では、
「何か作家の得意なジャンルが確立されていて、作品というよりも、作家が有名なシリーズ化された小説のテレビ化」
というのが多かった。
たとえば、
「トラベルミステリー」
であったり、
「家元殺人事件」
であったり、
「ご当地殺人」
というものもあった。
「ご当地殺人」
というのは、シリーズもので、ルポライターのような職業の人が、行く先々で事件に巻き込まれるという、実に、
「都合のいい作品」
であり、そのご当地の名物やおいしい料理などを紹介しながら、サスペンスドラマが楽しめるというものであり、
「地域復興」
と同時に小説が売れるという、
「二度おいしい」
と言える、小説なのである。
ただ、最近になると、
「ご当地」
というのは、少し陰りがあるかも知れない。
というのは、
「最近は、鉄道会社などの取り組みなのか、あざとさなのか、赤字路線を、容赦なく廃線にするということが多い」
それだけに、昔であれば、
「秘境の温泉」
などと言われる。
「隠れ家的」
なところが、今では、完全に、
「迫害されている」
といってもいいほどになっている。
何と言っても、鉄道会社は、非情なもので、確かに赤字路線は、経営を圧迫するのだろうが、実際に、そこに住んでいるという人だっているのに、それを無視して簡単に廃線にする。
自治体も困るはずなのに、最後は反対しないのだから同罪である。
「パンデミックが起こった時には、それを理由にして、廃線を正当化したくらいである」
政府やマスゴミ同様、鉄道会社の罪は、
「海よりも深い」
といってもいいだろう。
それを思うと、
「社会派小説などに描かれる、ゼネコンなどの収賄の問題となる企業など、まだかわいいものだ」
といってもいいのではないだろうか?
ただ、そこに、
「政府の誰かを庇うために、一人に責任を負わせて、自殺をさせる」
というようなことがあれば、論外であろう。
「そんなバカなことはないでしょう?」
と思うかも知れないが、今までの政治の歴史の中で、どれだけあっただろうか?
特に最近だってそうではないか。
疑惑に塗れたソーリがいて、
「私がもし、その疑惑の通りであれば、私は、ソーリはおろか、国会議員も辞める」
といってしまったことで、結果、そのソーリの言葉の責任を取らされる結果として、その人が、事件に関係していたのかどうかわからないまま、まるで、
「トカゲの尻尾切」
として、自殺することになったのだ。
これこそ、殺人と言わずに何と言う。
結果、自分も暗殺されることになるのだから、暗殺は、
「自業自得」
ということなのだろう。
さて、そんな、
「歴史は繰り返す」
と言わんばかりの事件が世の中には溢れている。
それを考えると、
「トカゲの尻尾切がなくならないように、今の時代も昔から繰り返されていることは、同じだ」
といってもいいだろう。
まぁ、あくまでも疑惑なので、ウソか本当か、当事者は死んでしまったので、闇から闇に葬られたのだが、
「えてして、闇から闇に葬られるというものは、まず疑惑がクロだったということが言えるのではないだろうか?」
ということだというのが、世間の一般的な意味で、
「推定有罪」
と言えるのだろう。
そんな事件は、本当に昔からあったのだろうが、
「まったくいつまで歴史というのは、愚かなことを繰り返させるのだろうか?」
と思えてならないのだ。
今回の事件に、
「何か裏があるのかも?」
と思うのは、
「テレビの見過ぎ」
ということなのだろうか?
渡会はいろいろ思い出していたが、目の前にいる刑事たちは、昔のような熱血刑事ドラマのような刑事でもなく、最近のテレビドラマのような刑事でもない。
作品名:抑止力のための循環犯罪 作家名:森本晃次