抑止力のための循環犯罪
「高級なお菓子のお店」
が軒を連ねていた。
クリスマスやバレンタインなどになれば、予約だけで大変なことになるような洋菓子の店で、
「この街にいると、当たり前の味なのに、全国から注文が殺到する」
というのは、地元の人間にがビックリであった。
それは、
「コーヒー横丁」
と呼ばれるあたりも同じことで、
「ずっと馴染んでいる俺たちは、これが当たり前だと思っているけど、知らない人は、絶対にビックリする」
と言われているところであった。
「喫茶店が、こんなに乱立しているだけでも、他の街ではありえない」
というのだ。
「だって似たような店があれば、ライバルが増えるわけなので、普通は反対するか、バチバチの関係になるかということだろうね」
と教えてくれたが、まさにその通りであろう。
ただ、
「こういう他ではない、この街だけの特徴」
などというところは、どこの街にでもあるだろう。
逆にそんなところがなければ、街全体が活性化せず、
「誰も寄ってくるような、馴染みのある街」
ということになるはずがないだろう。
それを認識しているからこそ、
「我が街の自慢」
となるのだろう。
この街の特徴としては、海外ブランドが多いというものと、逆に、まったく別の、昔ながらの城下町が栄えた場所というものがあったりする。そういう意味では、
「ハイカラで華やかな外国文化」
の街並みと、
「昔ながらの、証人や武家屋敷で賑わった城下町」
という二つの側面があった。
それも、市の中心部を流れる大きな川が、その二つを隔てていたのだ。
その大きな川は、昔の時代には、お城の、
「外濠」
を形成していて、この街のお城を、
「天然の要害」
と化していたのだった。
戦国時代などの城と違って、時代的には、織豊時代だったということなので、ちょうど流行り始めた、
「平城」
の様相を呈していたのだ。
戦国時代あたりでは、城というと、
「山城」
が主流だったという。
とにかく、
「短期間に築くことができて、たくさんの城をまるで、群のようにして、守りを固める。そのためには、できるだけ自然のものを使えるだけ使う」
ということになると、山間の険しさが、
「天然の濠」
「天然の塁」
というような形になるのであった。
しかも、冬至の城というのは、相当な数があったという。
今のコンビニの数よりもはるかに多かったというから、それこそ、一つの村に、数個の城があったといっても過言ではないだろう。
もちろん。本城というものがあって、それを支える支城がある。
つまりは、本城が攻めこまれていて耐えている間に、後ろに支城からの救援が駆け込めば、攻城軍を挟み撃ちにできる。
それも城を使った作戦である。
当時の山城はそのまま放置されたものが多いというので、調べれば、遺構がたくさん出てくるのかも知れないという意味でも、ロマンがあるだろう。
K市にあった城は、平城で、しかも、その特徴としては、
「海城」
としての、様相を呈しているというところである。
海上貿易にも長けているし、後ろは海なので、後ろからだと、船での攻撃しかなく、圧倒的に海の戦いに長けている方が有利だと言えるだろう。
しかも、もし、兵糧攻めにされているとすれば、後ろから、海路での補給を待てばいい。補給船を守るために、海の戦いになるのであれば、
「こちらの得意な方に相手を誘い込む」
という意味で、
「作戦的には、成功した」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「海城というものが、戦時には、補給であったり、要害としての機能として、十分に役立っているわけで、さらに、平時では、海上貿易を栄えさせるおいう意味で、これ以上の有利なことはない」
というものであった。
そもそも、この街が海外貿易で栄える港になったのかと言えば、その時代は、この戦国時代にさかのぼることになる。
元々このあたりは、農地としては、あまり適していないということで、過疎化した村だったのだ。
そこに。国衆である武将がここに目を付け、
「下克上」
でのし上がってきたことが、この街の発展を誘ったのだった。
「彼らでなければ、ここまで発展していなかっただろう」
というほど、かなりの力を持つようになったのだった。
海城を中心とした地域が、川を挟んだ、右半分で、新しい街中に、レトロな雰囲気を醸し出す街が左半分という、まるで、
「二つのまったく違った街が合併したかのようだ」
と言われてみたが、それにウソはなかった。
そもそも、K市というのは、三つの市が合併してできた市だった。
元々は、今言った二つの街に、実は、さらに山沿いに向かったあたりの地域も、平成の大合併で、含まれることになったのだ。
山沿いに向かった街というのは、
「街というには、おこがましい」
と言われるようなところであり、農家のようなところがあり、昔は、城下町直轄の荘園が営まれていた。
だから、逆にこのあたりには、昔の旧家が多い。地主と呼ばれる人が、山近くの土地を抑えていて、農地として貸し出していたのだ。
だが、それも、秀吉の時代になり、検地が行われ、石高がしっかりと示されるようになると、このあたりのっ庄屋というの、
「石高の力がそのままの権力となるので、いかに土地を抑え、いかに、農民を働かせるかということが、領主、そして地主、さらには庄屋の力であった」
と言えるだろう。
今の新しい文化をはぐくんでいる地域は、商業の街として発展していた地域であり、昔の商家として、文化財として残しておけるような場所は、キチンと保存し、それ以外は街の経済の活性化のため、整備され、時として、海外の人たちの助力もあって、今のような街並みに変わっていったのだ。
だから、大正時代からこっちを、時代に分けて管理するというのが、今の市のやり方だった。
ただ、この考え方は江戸時代からあったようだ。
今の時代にそぐわない考えだからといって、すべてを排除しようと考えるのは、難しいところがある。
それでも、何とか、3つの市を一緒にするまでには、かなりの問題もあった。
というのも、
「平成の時代で、3つの市を一つにするということで一番のネックだったのは、山間の街だ」
ということであった。
今のままであれば、そもそも市民税は安かったのだが、市が一緒になることで、
「税が上がる」
という問題があったのだ。
ただ、市県民税くらいは、雀の涙のようだったが、
「このままでいけば、山間の街の意見が通らないのではないか?」
という考えがあったのだ。
昔のように、農地改革になる前は、地主とかが明らかに強かったのだが、民主主義の時代になってからというもの、いくらでも発言力があり、逆のまわりの街から、
「地主さんのご意見は?」
ということで、
「とにかく意見を伺う」
ということが決定事項になっていて、
「この街の代表でいる以上、中途半端では務まらない」
と言われているのだった。
そのため、
「農地だったあたりが、一番発言力を持って、政府と折衝する」
という珍しいところであった。
作品名:抑止力のための循環犯罪 作家名:森本晃次