抑止力のための循環犯罪
「いいえ、そんなウワサがあったんですが? 私は知りませんでした」
と、平気な顔をしていう。
男なので、それほど気にしていないだけなのかも知れないが、もし、畑中の言う通り、本当に誰かに狙われる覚えがないのであれば、普通なら、
「うわっ、怖い」
とばかりに、恐怖を感じるはずではないだろうか?
それがないということになれば、何か他に、隠していることがあると考えるのも、無理もないことなのかも知れない。
「私は一体、どうしたんですか?」
と、どうやら、畑中という男は、何があったのか、理解していないようだ。
ただ。
「自分が、誰かに刺された」
ということだけは分かっているのだろう。
もっとも、運ばれてから、先日までは、面会謝絶の状態で、今日も20分という時間制限があるのだから、それまでに誰から聞くことなどないだろう。
聞いたとしても、医者や看護婦に分かるわけもなく、ひょっとすると、
「刑事である迫田のような人間」
を待ちわびていたのかも知れない。
そう思うと、迫田はかいつまんで話してあげた。
「そうですか、じゃあ、僕を刺した人間は、そのまま立ち去ったんですね?」
というと、少し憔悴したようだった。
ただ、複雑な表情を垣間見た時、
「捕まってほしいのは、やまやまだけど、犯人が誰なのか? というのが分かるというのも嫌だ」
という感覚なのではないかと感じたのだ。
「ということは、彼は、犯人に心当たりがあるということか?」
と考えていると
「じゃあ、僕が襲われたところを、偶然見つけて、警察に通報してくれた方がいたということで、僕は大事に至らずに済んだということですね?」
と聞くので、
「ええ、そういうことです」
「その人はどういう人なんですか?」
と聞いてきたので、
「ああ、今のところは、それは言えませんが、その人も、ちょうどあの場所でバスを降りてから、自宅に帰る途中だったということです」
というと、
「ああ、そうですか。分かりました。今度、お礼を言っておかなければいけませんね。でも、その人が何かを目撃してくれていなかったんですかね?」
と聞かれたので、
「少し事情は聴きましたが、犯人の顔は見なかったということです。先ほども申しましたように、影からいきなり飛び出してきて。両手で持ったナイフをあなたに突き付けて、撮るものも取り合えずに、逃げていったということでした」
というと、
「それにしても大胆ですね。目撃者に見られていても、襲ってくるなんて、そもそも、目撃者がいるのに、ひるまなかったということなんだろうか? もし、計画的だとすれば、何か、ずさんな気がするな」
と、畑中は言った。
確かにその通りだと、迫田刑事も感じた。
ただ、この時、目撃者がいても、犯人は容赦なく襲っている。そもそも、この時間に、被害者がここを通りかかるなど、日ごろの被害者の行動パターンを熟知していなければできることではないだろう。
そんな人物がいるとすれば、被害者にも察しがつきそうな気がするが、被害者の方では、口でも、雰囲気としても、分かっているという様子は見えない。
そんな状態なので、今回の話の中から、犯人に結び付くということはないだろう。
それを迫田刑事の方が考え、少し様子を見るしかないと考えていたので、迫田刑事は、もう一度、目撃者を訪れてみることにした。
もちろん、事件の方は、未遂ではあっても、最近の連続している事件に絡んでいることとはいえ、同じ日に発生した痴漢事件と、別々の視点で調べられることになった。
まあ、どちらも未遂だったとはいえ、一歩間違えれば、実に悲惨なことになっているわけで、それを思うと、
「本当に偶然なのだろうか?」
と思えてくるが、この時点では、何とも判断のつかないところであった。
迫田刑事は、目撃者の渡会を訪ねてみた。この男とは、犯行があった当日に、少し話を聴いただけであったが、その時には、何も事件に絡むような情報が得られたわけではなかった。
「渡会さん、何か思い出したことでもありましたか?」
と気軽に迫田刑事が聴いたので、どうも渡会は、ムッときたようで、
「いいえ」
と、言葉少なに感じた。
実はこれは、迫田刑事のやり方で、本来なら、警察は、目撃者には、へりくだった形で話を聴くのが当たり前であり、普通なら迫田もそうするのだろうが、今回の事件では、今のところ、何も得られることはなかったので、ちょっと揺さぶりのようなものを掛けることにしようと思ったのだった。
だが、普段から、こんな手段をとっているわけではなく、被害者である畑中が、
「何かを隠しているかも知れない」
と思ったのは、
「目撃者が何か影響しているのではないか?」
と感じたからだった。
あの場面において、犯人と目撃者と、被害者しかいなかったとすれば、犯人が本当に分からないということであれば、
「目撃者に何か気になったところがあったのだろうか?」
ということであった。
だが、被害者の方では、目撃者のことを気にしているようだった。
というのも、最近の事件では、個人情報保護の観点から、
「目撃者が誰か?」
ということを、普通であれば、被害者や、ましては、犯人であるだろう、容疑者に話すなどということはありえない。
もちろん、犯人だと警察や検察が確定し、起訴したことで、裁判となる場合、法廷に連れてこられた証人を、被告の見えないようにして、裁判を行うなどということはできないだろう。
だから、なかなか、法廷の証言台に立ってくれる人が少ないというのもうなずける。
もし、本当に殺害現場などを目撃して、
「犯人が憎い」
と思ったとしても、被告が有罪となって刑に服するということになった場合、数年で出所してくれば、逆恨みをされて、殺されないとも限らない。
なぜなら、
「罪を償う形で刑期を終えて出所してきたとしても、警察からは解放されても、今度は戻るところがない。もし、前科者だということがバレてしまうと、せっかく出所してやり直そうとしても、雇ってくれるところがない」
というものだ。
「俺はどこまで行っても、犯罪者」
と思い、せっかく罪を償ってもいくところがないと考えれば、逆恨みくらいするというものだ。
「あいつを殺してやる」
などと思ってもしょうがないとはいえ、殺されたら、何にもならない。
「目撃者になんかなるもんじゃない」
と思っても、後の祭りである。
だから、目撃者というのは、下手なことは言わないだろう。目撃したとしても、犯人に直接つながるようなことをいうと、それこそ逆恨みされてしま。それが恐ろしいといえるのではないか。
ただ、裁判では、
「虚偽の証言をすれば、罰せられる」
ということであった。
しかし、逆に黙秘権というのもあるわけで、それが被告であろうと、不利になるようなことは言わなくてもいい。下手に口走れば、証拠として取り上げられるという、一種、公平をモットーとする裁判における、
「矛盾」
のようなものではないかと、思うのだった。
だから、目撃者と言えども、
「余計なことを言わない」
作品名:抑止力のための循環犯罪 作家名:森本晃次