抑止力のための循環犯罪
ではあるが、
「異常性癖」
というわけにはいかないだろう。
というのは、基本的には遺伝によるものではなく、
「生まれてからの環境によるものだ」
と言われることが多いという。
つまり、性を取り巻く社会環境が、多様化してきたことで起こる現象とでもいえばいいのだろうか?
また、
「SMの関係」
と言われるものは、一種の
「異常性癖」
というよりも、
「性的行為の表現」
といってもいいのではないだろうか?
性癖というものが根底にあるということは間違いないだろうが、昔であれば、
「紳士淑女の遊び」
とまで言われていたほどで、しかも、
「その行為には、危険が伴っている」
とも言われている。
過激になってしまうと、興奮が抑えられなくなり、
「誤って、相手を殺してしまう」
ということになりかねないといえるだろう。
つまりは、
「相手との信頼関係がなければ、SMの関係というのは、成り立たない」
と言えるのではないだろうか?
だから、一歩間違えると、SMというのは、
「命がけの遊び」
といっても過言ではない。
命をかけるということが、どういうことなのかもわからずに、
「SM関係のことを語るな」
と言われれば、言い返しようがないのだが、中には、相手のことは関係なく、
「自己の欲求を満たすためだけの、プレイ」
というのもあったりするだろう。
ただ、ニュースであまり聞かないのは、社会的な影響を考慮して、緘口令が敷かれているということなのだろうか?
それを考えると、
「マスゴミであったり、マスゴミに代表される世間というものが、SMを、完全に異常性癖だと決めつけている」
ということが問題なのではないだろうか?
煽るだけ煽っておいて、実際には、タブーなこと、だから、マスゴミで騒ぐということが、どれだけの反響を生むのか分からない。
それで、政府は警察が批判でも受けるとすれば、
「本末転倒も甚だしい」
と思っているのだろう。
しかし、もし、これをマスゴミにしても政府などが、ただ、
「本末転倒だ」
といって何も解決しようとしないのであれば、余計なことをしないでほしいと思う。
自分たちの都合が悪くなるから、
「社会に影響を与える」
ということを理由にして、拡散させないようにしたのだろう。
そんな社会において、
「近親相姦」
というものがある。
似た言葉に、
「近親結婚」
というものがあるが、こちらの場合は、モラルの問題なのか、時代の影響なのか、近親婚というのは、昔は平気で行われていたという。
今の時代であれば、
「三親等まではダメだ」
ということで、叔父、叔母はだめだが、いとこ同士というのは禁止されているわけではない。
「○親等」
というのは、まずは、自分からさかのぼって、
「どこから別れたか?」
ということから、親等が決まってくる。
だから、叔父の場合は、まず、自分の父親までで、一親等、そして、祖父に至って、二親等、そこから息子に至って、三親等となるのだ。
「叔父というのが、父親(母親)の兄弟だから、一親等ということではない」
ということだ。
つまりは、
「横にずれることはないわけで、血のつながりというものは、兄妹よりも、親子の方が濃い」
ということになるのだった。
そのことを考えると、いとこというのは、お爺さんまでさかのぼって、そこから降りてくることになるので、叔父の息子となるので、
「四親等だ」
ということになる。
だから、三親等以上の結婚を許されるいるわけだから、
「いとこ同士での結婚は法律的に許される」
ということであった。
しかし、昔は、もう少しややこしいようだった。
「兄妹、姉弟であっても、結婚できる場合がある」
ということだ。
ここでミソなのは、
「場合がある」
ということで、
「腹違いであればいいが、父親違いであれば、ダメだ」
ということだ。
言葉の言い回しであるが、
「場合がある」
という言い方が、」
とは言えないだろうか?
というのも、」
「実に曖昧なものだ」
と言えるのではないだろうか?
というのも、
「場合がある」
というのは、
「どちらに重きを置くか?」
ということであり、基本的に場合があるという時の、
「場合」
というのは、少数派ということを示している。
つまり、
「少数派に重きを置いているのか、多数派に重きを置いているのか?」
ということであり、この、
「近親婚」
の場合では、結婚ができるという稀なケースが問題なのだろう。
「本当は結婚してはいけないのに、できる場合がある」
というのと、
「結婚できる場合があるが、基本的にはダメである」
という言い方は、まったく正反対の解釈になるのだろうが、それを一言で説明しようとすると、
「結婚できる場合がある」
ということになるのだ。
前述の二つの言葉は、間違いというわけではないが、
「言い方が違う。それによって、受け取り方も違うので、正反対の解釈というものができる」
という考え方である。
ただ、この場合の解釈は、昔の事情を考え、
「家の存続などを考えると、モラルというよりも、尊属が重要だと思えば、まったく結婚できないというよりも、結婚できるという方にその重きは移行するに違いない」
それを考えると、昔の人は、近親婚が多かった。
「万世一系」
と言われる天皇家でも、そうやって途切れることなく、2,600年という時代を乗り越えてきたのだろう。
世界でも類を見ない、
「天皇家」
の万世一系の家系は、実際には守られるべきものなのだろう。
それを、異常性癖というのは、お門違いというもので、それこそ、
「本末転倒である」
と言えるのではないだろうか?
究極の言い方であるが、ここまで上げてきた、
「異常性癖」
と呼ばれるものは、果たして、異常なのだろうか?
ということであった。
それぞれに、それぞれの事情があり、
「ひょっとすると、時代にそぐわない発想」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、凛子は、早く先輩に会いたいと思うようになっていた。
その先輩というのが、実は名前を、
「畑中修三」
というのだが、それが、まさか、同じ日に起きた
「殺人蜜事件の被害者」
であるということを、この時はまだ、誰も知らないことだったのだ。
脅迫
畑中は、病院のベッドの上にいた。手術を受けて、麻酔が効いていることもあって、医者からは、
「2、3日は、絶対安静状態です」
と言われていたので、4日目に刑事がやってきて、事情を聴くことになった。
それまでは、とりあえず、捜査員を一人張りこませておいた。殺害未遂だといっても、犯人が、病院を狙わないとも限らない。
もし、この状態で、病院に犯人が忍び込んで、
「本懐を遂げた」
などということになると、警察の面目は丸つぶれだからである。
殺人未遂とはいえ、人をナイフで刺すという事件は社会的にも影響が大きい。犯人が通り魔だったとすれば、
「市民はおちおち表を歩いてはいられない」
というわけである。
作品名:抑止力のための循環犯罪 作家名:森本晃次