抑止力のための循環犯罪
しかし、今度、中学に入ると、皆、一律の制服を着ることになる。そうなると、
「さすがに女性的な恰好はさせないだろう」
と思っていたが、母親は、
「一筋縄ではいかない」
という性格のようであり、あくまでも、子供に、
「今まで通りを徹底させよう」
としていたのだ。
だが、そんなことが通用するはずもなく、今回は、ハッキリ、
「こんな格好ができるはずなどない」
という思いが頭をもたげ、完全に母親に逆らったのだ。
その逆らいという感覚に、母親は、非常に驚いた。
「今まで自分に逆らったことのない息子が、頑なに拒否るなんて」
という思いだったのだ。
だが、もっと驚いたのは、息子の方で、
「何だ、この感覚は?」
と感じたのだ。
「あれだけ、母親に逆らうことを恐怖のように感じていたのに、実際に逆らってみると、何とも言えない快感に陥っていた」
のであった。
母親に逆らうというよりも、
「毛嫌いしている自分がいる」
ということを自覚した。
しかし、それがその時、
「思春期に自分が立っているからだ」
と感じたのだということに、すぐには、気付かなかったのだ。
思春期というのは、半分は、
「反抗期」
といってもいい時期で、名前は知っていたが、そんなものなのか、想像もつかなかった。
そもそも、親に逆らうという感覚がなかった。
「親には逆らってはいけない」
という自分の中に戒律のようなものがあったといっても過言ではないだろう。
そんな反抗期において、
「こんなに爽快なものなのだ」
と感じるとは思わなかった。
子供に逆らわれて、地団駄を踏んで、まるで駄々っ子のような雰囲気になるのかと思ったのだが、もし、そういう態度を取られると、きっと、
「こんな人は、親ではない」
といって、呆れかえってしまうのではなかっただろうか。
しかし、実際には、息子を見るその目が、まるで、
「捨てられたネコ」
のように、何かにすがるような視線だったのだ。
普通であれば、この顔の方が呆れかえるのではないかと思ったが、そうではないというところが、
「思春期の思春期たるゆえん」
といってもいいだろう。
お母さんというのが、
「オンナだったんだ」
と感じた瞬間だったのかも知れない。
しかし、それは当たり前のことで、
「思春期というものが、異性を異性として感じる時期だ」
ということなので、至極当然のことであり、却って、
「こんな格好をずっとさせられてきた自分に、異性、つまり、女性を異性として感じることができるのだろうか?」
という一抹の不安を抱いていたのだった。
だが、おかげさまで、
「異性を異性として感じることができた」
というのは、ありがたいことではあったが、そのために、見たくもなかった母親の、
「オンナとしての部分」
を見る羽目に陥ったというのは、あまりありがたいということではなかったのだった。
ただ、それまで女の子の恰好をさせられていたことへの、羞恥と、さらに、その恰好を、「まわりの女の子がどのような目で見ていたのか?」
ということを考えると、
「こんな僕に、彼女なんかできるんだろうか?」
ということであった。
実際に、彼を意識する女の子は現れなかった。
だが、それでも、思春期をすごしている間に、
「どんどん自分が男になっていっている」
という意識が感じられた。
そして、その中で感じたのが、
「女性には優しくしないといけない」
ということであった。
女性に優しいということは、男性として当たり前だということで、ある意味、
「女性に対して」
ということよりも、
「男性として」
という思いの方が強く感じているのであった。
だから、自分がマウントをとったり、
「主導権を握ろう」
という意識ではなく。相手中心というわけではなく、
「自分がこうありたい」
と考えているだけだということを、意識はしていただろうが、自覚までしていたのかどうか、怪しいところであった。
だから、
「もし、女性を好きになったとして、本当に自分が好きになれるのか?」
と思ったほどだった。
「自分を男として見られたい」
という考えであれば、そのために利用された女の子は可愛そうだというものだ。
それはまるで、
「偽装結婚」
というものと同じではないか。
その頃の先輩は、
「偽装結婚とは、何ぞや?」
ということは分かっているようだった。
世の中には、異常性癖の人がいるものだということを、まだ思春期の先輩は。
「自分のことを棚に上げて」
分かっていたようだった。
ここでいう、
「異常性癖」
というのは、
「同性愛者」
ということであった。
まだ思春期の先輩に、
「同性愛」
ということは理屈では分かっても、その存在を理解することはできなかった。
つまり、
「同性愛者というのは、ただただ気持ち悪い」
という感覚だったのだ。
もし、自分が、母親の思い通りの恰好をさせられている間に、女性としての心を持つようになっていれば、思春期になって、男性を好きになったかも知れないという意識はなかったのだ。
ただ、今から思えば、
「女の子の恰好なんかさせやがって、自分でも気持ち悪いという思いを抱いているだけで、俺は、あんたのおもちゃじゃないんだぞ」
という思いが、想像以上に強かったのだろう。
だから逆らうことのできない自分の感覚が、
「母親に対してどう感じているか?」
ということを考えさせることに繋がり、
「ずっと自分が女性というものを見る時、母親の姿を通して、その先にいる女性だけを見ているのかも知れない」
と感じていたのだった。
「自分は男なんだ」
ということを強く思わないと、女性に興味を持ったとしても、
「どうしても母親の呪縛から逃れられない」
という思いを払しょくすることはできないと思えてならないのだった。
自分が、誰を好きになるかということよりも、
「いかに母親の呪縛から、自分を解放させられるか?」
ということの方が大変だったのだ。
そこで考えたのが、
「とにかく、自分が、女性を好きになるか?」
ということであった。
普通に考えれば、この考え方は、本末転倒なもので、
「相手を好きになったから、好きになる」
というのが、当たり前のことであり、そもそもいうまでもないことなのだ。
しかし、そこに、母親の存在があるということは、忌々しさが感じられることであり、
「母親が子離れできないせいで、子供が母親に気を遣泣分ければならないなど、やはり、本末転倒でしかない」
ということであった。
好かれた女性も、迷惑千万だといってもいいだろう。
中学時代に、同じ感覚で、告白した女の子がいたが、その時は、
「私はあなたが、好きじゃないわ。だって、あなたは私のことを好きじゃないもん」
といって、袖に引っ掛けるくらいもせず、電光石火で、断られたのであった。
「訳が分からない」
というのが、先輩の考えだった。
罵倒されたことで、頭に血が上ったというのも、しょうがないことなのだろうが、彼女の言葉があまりにも的を得ていたことを分かっていたのかも知れない。
作品名:抑止力のための循環犯罪 作家名:森本晃次