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抑止力のための循環犯罪

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 自分の成績からすると、普通に考えれば先輩が進学した大学が無難だったのだが、結局、先輩が卒業するまで、自分の気持ちを告白したことなどなかったのだった。
 だが、卒業してからというもの、すっかり先輩のことを忘れていた。
 しかし、それは、
「試験に合格するまでは、試験に集中」
 と思っていたからで、先輩のことも、どんどん優先順位が低くなっていき、
「忘れてしまいそうだ」
 とまでに感じるようになっていった。
 だが、実際に入試に合格すると、それまで抑えつけていたものが、一気に破裂した気がした。
 そこで、先輩のことがもっと上に来るかと思ったが、今度はどんどん、下に下がってくる。それだけ、今まで抑えつけていたものを解放したことで、それまで、
「結構上だ」
 と思っていたことが、実は下だったりしたのだった。
 これを、
「心の余裕」
 と思えばいいのか、
「私はこれでいいんだ」
 と一段落した気持ちになったのだ。
 合格してから、先輩には遭っていなかった。
 先輩も後期試験があって、そちらで大変だということであった。しかも、
「車の教習所代金を稼ぐためにアルバイトもしている」
 ということであった。
 先輩は、そういうところが律義で、
「車の免許代くらいは自分で出さないと」
 といっていたのだ。
 そういうところも、先輩のことを気に入った理由の一つであった。
 しかも、
「面倒見がいい」
 ということもあって、
「誰からも好かれる人だ」
 といってもいいだろう。
 だから、猜疑心が湧くのである。
 猜疑心というのは、
「自分で抑えなければ、誰にも抑えてもらえないものだ」
 というものであるが、
 だからといって、
「抑えることが本当にいいのか?」
 という疑念もあるのであった。
 猜疑心というものは、
「相手も行為を疑ったり、妬んだりする」
 というもので、そもそも猜疑心というものは、
「その人のことが好きでなければ、成立しない」
 というものではないだろうか?
 ただ、猜疑心というのは、
「妬んだり疑ったりする」
 という方から見たものであって、
「本当にその人のことが好きだ」
 と言えるのだろうか?
 というのは、猜疑心を感じた人間が、自己顕示欲の強い人であったら、どうなるのであろうか?
 というのは、自己顕示欲が強いというのは、相手のことがどうこう言う前に、、
「自分が目立ちたい。その人を好きになっている自分を、自分の中で、好きになった人から認められたい」
 という気持ちもあるのだろう。
 自分が別にマウントをとっていて、前に出ているわけではないので、そこまで、本人は意識していない場合も多い。
 それだけに、
「本当に相手のことが好きになったのかどうか?」
 ということが分からないといってもいいだろう。
 つまりは、
「猜疑心が強いということを意識することはあるが、それがどこから来ているものか、分からない。そういう場合は、自己顕示欲という、証人欲求のうちの一つが働いていると考えられるが、自分で意識するのは、なかなか難しい」
 ということだ。
 ただ、自己顕示欲が強い場合は、猜疑心を抱いた相手のことが、ほんとに好きなのかどうか、正直分からない」
 それを考えると、
 凛子は、
「私が本当に先輩のことが好きだというのが本当なのか、自分でもよく分かっていないということではないか?」
 と考えられるのであった。
 中学時代に好きになった人がいたが、その人に対して、確か、猜疑心のようなものがあった。
 ただ、それは、自分が、
「思春期だったから」
 ということもあった。
 それを考えると、
「今も思春期が続いているのかも知れない」
 と思い、錯覚に陥るのだった。
 凛子はそんな中で、実は畑中の性格をある程度把握していたのだ。
 といっても、あくまでも、
「予感があった」
 というだけで、本気でそう思っていたわけではなかった。
 何かを考える時、
「最悪な考えも持っておかないと、何かあった時、思い込みが激しければ、傷つくのは私だけになってしまう」
 と思っていたからで、それだけ自分に自信を持っていなかったからだといえるのであろう。
 だから、先輩に対しても、自分が思う、
「最悪」
 というのは、
「私に優しい先輩は、他の人にも優しいんだ」
 ということであった。
 この場合の、
「他の人」
 というのは、もちろん、女性だけではなく、男性にも言えると思っていた。
 だが、これは本当に、思い込みであり、その思い込みというのが、
「男性にも言える」
 ということであった。
 先輩が男性に、優しいかどうかが重要ではなく、とにかく、
「女性には優しい」
 ということだった。
 フェミニストだということであれば、別に何かを言われることはないのだろうが、
「女性を女性として見ている」
 というところが問題だった。
 この先輩には、昔からコンプレックスがあったことを、凛子は知らなかった。
「どんなコンプレックスなのか?」
 というと、
「自分が女性っぽいのではないか?」
 と感じていたことだった。

                 異常性癖

 どうやら、それは、出生の頃にさかのぼることであり、ある意味気の毒なことでもあった。
 というのは、
「先輩が生まれた時、家族は、女の子がほしいと思っていたようなのだ。特に母親の気持ちは強かったようで、男の子なのに、幼少の頃から、させる格好が、女の子の恰好が多かった」
 ということであった。
 近所の人たちからは、
「まあ、可愛い女の子だこと」
 といって、褒められるのを、母親は至高の悦びとして感じていた。
 成長するにしたがって、それでも、女の子のような恰好をさせていた。小学生の頃までは、おかっぱ頭の少年で、見方によっては、
「可愛い」
 という人もいただろうが、本人は、まわりから、
「気持ち悪いと見られている」
 と感じていたのだ。
 実際に、ほとんどの人が気持ち悪いと感じていたようだ。
 女の子の恰好は、本当に女の子に見えなくもないくらいの男子がやって初めて似合うわけで、そうでもなければ、気持ち悪い以外の何者でもない。
 まるで、嫌らしいものを見るような目を浴びせられ、しかめた顔をされてしまうと、最初は、
「どうして、そんな目で見るんだ」
 と子供の頃のいつかまで、そう思っていた。
 しかし、途中で、その考えが変わってきたのだ。
 それは、
「どこかのある一瞬」
 であって、その一瞬が訪れたことは分かっていたが、その一瞬が、自分が生きてきた中のいつだったのかということまで分からなかったのだ。
 つまり、
「人生の中の時系列という意味でのいつ頃の出来事だったのか?」
 ということである。
 小学生の低学年のいつかの瞬間だったのか、それとも、高学年だったのか、分からないまでも、間違いなくその瞬間は存在し、意識したという感覚は残っていたのだ。
 そんな気持ちの変化を知ってか知らずか、いや、知っていれば、もう少し違っただろうが、母親は、まだ、その恰好を変えようとしなかった。
 結局、小学生の頃までは、終始その恰好に徹底させられた。