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抑止力のための循環犯罪

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 と言えるのではないだろうか?
 この分業制というところが、
「小説と、シナリオの一番の違いだ」
 といってもいいだろう。
 つまり、小説というのは、書き始めるまでは、編集者の人と、企画段階くらいで、いろいろと話をしながら作品を作っていくことが多い。だから、そこまでは、どちらかというと、
「共同作業」
 という趣が強いのかも知れない。
 だから、一つ一つ問題を潰す作業が最初にあるのだ。
 しかし、シナリオの場合は、明らかに目的が違う。。
 その一番は、
「映像化というものが、最終目的である」
 ということであった。
 だから、まずは、プロデューサーや監督が、大筋を決め、脚本家が、監督と内容を詰めたり、並行して、オープニングデザイン、キャスティング、さらには、音楽などが決められていく。
 そして、シナリオに起こしたものを、監督と俳優とで、映像化していくというのが、大まかなところであろうか?
 小説家と脚本家の一番の違いは、
「脚本には、脚本家の思いを入れすぎるのは、いけない」
 と言われることであった。
 逆に演じる俳優のことを考えたりイメージして作るならいいが、俳優にも得手不得手があるように、不得手なところを描くと、せっかくの作品にケチがついてしまうし、さらには、役者も、
「下手だ」
 というレッテルを貼られてしまうことになるので、せっかくの政策フロントの意図したことから外れてしまう。
 つまり、脚本というのは、映像作品を撮るうえでの、
「一つの駒」
 であり、
 その駒が、他に先んじて、表に出ようとすると、せっかくの、役者のキャラクターを殺してしまうということになりかねない。
 そこが難しいのだ。
 「脚本家は、あくまでも裏方」
 ということを自覚していなければ、脚本家というのは務まらないだろう。
 それでも、シナリオに癖の強い人はいる。
 しかし、だからといって、その人は、まわりからも、脚本仲間からも一目置かれていて、
「あの先生の脚本でドラマに出てみたい」
 というような作品を書くという人は、結構いたりする。
 そういう意味で、
「本当は、自分オリジナルの作品を書きたいのに、最近のアニメが原作のものを、脚本に起こすのは嫌だ」
 と思っている。
 そういう作品は、ほとんど、マンガのアニメ化も同時に行っている。
 基本、アニメは原作に忠実だろうが、実写はそうはいかない。
 どうしても、
「アニメにはできるが、ドラマ形式だと無理だ」
 と言われることがある。
 それを思うと、
「アニメと比較されるのは嫌だな」
 と考える。
 そもそも、
「オリジナルという考え方が好きなのに、どうしてシナリオの方に進んだんだろう?」
 という考え方であった。
 元々、マンガというものが好きではない。なるほど、小学生の頃には読むこともあったが、中学生になると、あまり読む気がしなくなった。
 凛子が、どうしても好きになれないのが、
「劇画タッチ」
 の作画だったが、
「そもそも、皆同じ顔に見える」
 というのが、マンガを見ていて感じることだったのだが、それが劇画になると、余計に感じられるようになったのだ。
 それを思うと、
「マンガなど読みたくない」
 というのが、本音だったのだ。
 特に社会現象と呼ばれるようなマンガやアニメが有名になっていくにつれて、次第に、そういうものを毛嫌いしている自分がいることに気づく。
 まるで、自分が昔の、
「教育ママ」
 のようになっているのではないかと思う。
「食わず嫌い」
 という言葉にあるように、
「最初から見ようとしないのだから、とやかく言える立場にはない」
 ということは分かっていた。
 もし、それをとやかく言おうものなら、
「どの口が言う」
 と言われるのが関の山であろう。
 それを思うと、
「自分が、元々毛嫌いしていた教育ママになりつつあるのを感じる」
 ということになると、親から叱られる時、その親を見ていて、
「あんたには、子供の頃というものはなかったのか?」
 と言いたくなるのだ。
 自分が子供の頃だって。大人が言っていることに逆らいたくなったり、
「いずれ、自分が大人になったら、自分の親のようには絶対にならないぞ」
 と感じていたのではないだろうか?
 それなのに、自分が親という立場になったら、何もかも忘れたかのように、裏を返したかのようになるというのか、それを思うと、
「大人になんかなりたくない」
 と自分が子供の頃に少し年上の人が言っていたのを思い出した。
 それは、嫌でも、
「自分は大人になるしかないんだ」
 という気持ちだったからだろう。
 そんな大人になるということがどういうことなのかというのを思い出してみた。
 思春期の前から思春期があって、その後、少しずつ大人になってきているという感覚があった。
 その思いがどのように時系列として成り立っているかが思い浮かんでくるだろう。
「一大小説が掛けそうだ」
 と思うくらいだったが、
「絶対にそれを描くことはないだろう」
 と感じた。
 もし描くとしても、決して自分としてではなく、誰か架空の人物を作り上げ、その中で育まれているということになるのだろうが、そうでもしないと、作品が、
「フィクションと謳っていても、自分がフィクションとして許さない」
 ということになるからだろうと思うのだった。
 小説というものは、
「どんなに自分の創作だと言ったとしても、その主流が、自分の経験であったりする、ノンフィクションであれば、フィクションとはいえない」
 と思っていた。
 しかし、本当の話が枝葉の部分であったら、十分フィクションだといえるのではないだろうか。
 それを思うと、
「小説というのは、こだわりが大きいところがあるが、いくらでも、逃げ道というのはあるというものだ」
 ともいえるのだった。
 だから、本当は、
「小説を書きたい」
 と思っていた。
 しかし、すでに時代は、小説などの場合は、紙ベースというものはどんどんなくなっていき、ネットによる配信であったり、掲載が主流になってくる。
 実際に、昔はあれだけあった本屋が、今はほとんど見かけなくなったきた。特に、主要駅などに、あれだけ大きな本屋が乱立し、一時期、
「本屋戦争」
 と呼ばれていた時期があったというのも、決して大げさなことではなかった。
 そんな、
「本を出したい」
 という人の心を利用する形で、一世を風靡した
「自費出版社系」
 と呼ばれる出版社が、大小合わせて10社くらいはあったのに、今では、一社だけが生き残っている。
 これは数ある
「根も葉もないウワサの一つ」
 と言われていたが、
「自費出版社系の会社が、軒並み、詐欺だといって騒がれて潰れていったのか?」
 ということに関わってくる。
 確かにやっていることは、最悪のことで、実際に、
「詐欺行為」
 だったのであるが、まったく気づかなかった、
「本を出した」
 いわゆる、
「詐欺にあった人たち」
 が、急に、
「自分の本が本屋に置いていない」
 といって騒ぎ出し、訴訟を起こすまでに至ったのである、しかも、ほぼ同時期にである、
 つまりは、そこに、
」何かの力が働いている」