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血の臭いの女

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「意識していないわけではなく、マヒしている」
 というのは、
「感覚を意識しているわけではないというのは、一旦意識したものを、自分でしていないと否定する」
 ということであり、
「マヒしている」
 というのは、そういう感覚を味わう以前の問題ではないかと思うのだ。
 そういう意味で、マヒしているという方が、忘れてしまっているという意識に強いもので、それだけ。
「忘れてしまっている」
 ということが、無意識になるほど、夢というのは、
「奥が深いものなのかも知れない」
 と感じるのだ。
 だから、
「夢を本当は毎日のように見ていて、ただ忘れてしまっているだけなんだ」
 と言われれば信じるし、しかも、それを自己暗示のように、自分がいうのだから、それも当然のことではないだろうか?
 ただ、自分の中で分かっているつもりになっているのは、
「夢を見た」
 と感じる時でも、
「覚えている夢と、覚えていないと思う夢との二種類がある」
 と感じていることであった。
 覚えている夢というのが、印象深い夢だということは当たり前のことであり、逆に、
「印象深くない夢を覚えているくらいなら、全部の夢を覚えているに違いない」
 と思うと、夢の記憶というのは、
「ある意味、自分にとって都合のいいものなのかも知れない」
 と思っているのだった。
 ただ、覚えている夢というのが、そのほとんどが、怖い夢なのであった。
 というのも、その内容が、本当にオカルトチックなもので、その怖いものというのが、
「もう一人の自分を見た」
 というものであった。
「もう一人の自分」
 というものを考えると、それは、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
 と言われるものであり、
「世の中には、自分に似た人が、三人はいる」
 と言われているが、この、
「ドッペルゲンガーというのは、自分に似た人というわけではなく、本当の、もう一人の自分なのだ」
 という考え方である。
 同一の次元で、同一の時間。つまり、パラレルワールドでもなく、マルチバースでもない、現実という世界において、まったく同じ人間が存在しているというのは、物理学の観点からも、あり得ないことなのかも知れない。
「タイムパラドックスでもあり得ないこととして、ビックバンを語る人だっているというのに」
 ということを考えると、
「ドッペルゲンガーというものが、どれほどの大きな問題なのかということに繋がってくるのである」
 と言えるのではないだろうか?
 そのことを、大人になって理解しているから、夢を見ることに、ものすごい恐怖を感じるのだが、そんなことをまったく知らない子供の頃であれば、
「もう一人の自分」
 というものが出てくる夢というものを、理論的に怖いと感じることはないだろう。
 だから、子供の頃に感じた恐怖は、どこまでが、本当の恐怖だったのかということを分かっていないということになるであろうか?
 それを思うと、子供の頃に忘れなかった夢のほとんどが、
「もう一人の自分に出会った」
 という夢だったというのが、子供としても、何かの潜在意識を持っていたということであろう。
 ドッペルゲンガーというものを見た時、どのような現象になるかということは、昔からいわれていることで、実に恐ろしいことである。
 しかも、著名人や有名人が、過去にドッペルゲンガーを見たことで、どういう運命になったのかということが言われ続けていることから、できた伝説なのか、それとも、昔側言われていることの通りに起こるから、余計に恐怖を煽るかということを考えた時、ドッペルゲンガーの真の正体に触れるのではないかと思うのだった。
 ドッペルゲンガーを見ると、
「その人は、数日以内に死んでしまう」
 という言い伝えがあった。
 特に、その言い伝えがたくさん残っていることから、その信憑性についていろいろと言われていたりする。
 しかも、ドッペルゲンガーの特徴も、行動パターンから、その行動範囲まで、定説のように言われるようになり、それが、信憑性であったり、説得力のように言われるようになったのであった。
 だが、その行動範囲からいえば、
「夢の中」
 ということを言われているわけではないので、一般的に言われている、
「ドッペルゲンガー」
 には、
「夢の中に出てくるものは含まれない」
 といってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「数日以内に死なないからといって、ドッペルゲンガーの信憑性を疑うに値しない」
 といってもいいだろう。
 ただ、夢の中に出てくるドッペルゲンガーには、
「それなりの、信憑性や理由のようなものがあるのではないか?」
 と感じるのであった。
 もう一人の自分が夢の中に現れた時、相手は、夢を見ている自分を見つけるのだろうと思っていたが、どうやら、少し違うようだった。
 というのも、
「ドッペルゲンガーが見つける自分」
 というのは、
「夢を見ている自分」
 というわけではない。
「夢に出ている主人公である自分を見つけた」
 ということなのだ。
 つまり、夢というのは、夢を見ている時点で、
「主人公である自分と、夢を見ている自分との二人が存在している」
 ということになるのだ。
 夢を見ている自分の姿を、現実世界でも見ることができないわけなので、意識としては、夢を見ている自分が、現実の自分に一番近いのだ。
 しかし、夢の中ではその意識はない。主人公である自分が、意識していると思っているのだろう。
 それを考えると、
「夢を見るということが、最初から、夢を忘れるということを意識させている、一種の、減算法のようなものではないか?」
 と感じるのであった。
「夢の世界に存在している世界は、元々、現実世界における一瞬のコピーのようなものであり、その時点で、100%のものだということになるのではないだろうか?」
 という考え方であった。
 減算法と加算法、それらの考え方が、見ている夢をそれぞれに、
「覚えている夢」
「覚えていない夢」
 それぞれにいざなうのではないだろうか?
 その日の夢がそういう夢だったのか、まだ目が覚め切っていない頭の中で、何か感じられるようだった。
 いつもであれば、その夢の恐ろしさを身体で感じるはずなのに、自分で意識ができていないというのは、何とも言えないといってもいいだろう。
 ただ、くるまっている布団の重みが感じられ、それが、湿気によるものであることは、目が覚めていない状態でも感じることができる。一種の本能のようなものだといってもいいのではないだろうか。
 汗を掻いているから、当然布団が水分を吸うわけなので、重たくなるのは当たり前のこと、それが意識して感じられているのかどうか、目が覚めていない状態であれば、何ともいえない状況だったのだ。
 さて、夢から覚めようかとしている時、時々デジャブを感じるのだ。
 普段、
「あれ? 今何か過去に感じたことがあるような思いをしたような気がしたんだけどな?」
 と感じるのが、一種のデジャブであるが、それは普段、
「起きている時にしか感じないものだ」
 ということを、当たり前のことのように感じていたのだった。
 しかし、今から思えば、そうではなくて、
作品名:血の臭いの女 作家名:森本晃次