血の臭いの女
「寝ている時、しかも、夢から覚めようとしている、起きているか寝ているかという意識が、一番曖昧な時に感じることであって、それを感じさせない何かが働いているのではないか?」
と感じたのだ。
「それが、ドッペルゲンガーの正体?」
と思ったのは、かなり突飛ではあるが、自分の中で、どこか信憑性があるのだった。
「デジャブというものが、夢の中だけのことなのだ」
ということになれば、
「デジャブに、ドッペルゲンガ―が絡むと考えることで、まるで、夢の世界が、不可思議のオンパレードだ」
と思うと、不可思議なオカルトであっても、辻褄が合っているかのように感じさせるのだった。
オカルトというものを、
「都市伝説」
のようなものと考えると、ホラーなどと、一線を画してみることができるというものであり、
だとすると、
「デジャブ」
に、
「ドッペルゲンガー」
さらには、
「夢の世界」
というものを考えると、そこに、一種の、
「三すくみ」
という考えが絡んでくると思うと、面白い現象なのかも知れない。
三すくみというのは、前述のように、
「抑止」
という問題であったり、お互いの位置を入れ替えるということで、違った景色を見せるものだと考えると、夢の世界と、現実の世界。さらに、もう一つ知らない世界が、どこかに広がっていると考えるのは、突飛すぎるだろうか?
ただ、そう思うと、夢の世界からこちらの世界に戻ってくる時という間に、実に曖昧な時間が存在していて、異次元を思わせるものであると考えると、その間に、
「三すくみを形成する、意識することすら許されないような世界が広がっていて、その世界を予期させないように、ドッペルゲンガーを見ると、数日で死ぬというような、都市伝説的なことが言われるようになったのではないか?」
と考えるのであった。
ただ、ここで、急に、
「三すくみ」
という考えが、急浮上してきたというのが、大いに発想を豊かにさせるものでもあり、素人とはいえ、物書きとして、何かを感じさせるものではないかと考えると、実に面白い感覚になるのだった。
そんな真夜中の静寂の時間、時計を見たわけでもないのに、時刻は、午前二時を少し回ったくらいであり、いわゆる、
「草木も眠る丑三つ時」
という言葉にピッタリであった。
最近の世の中では、
「眠らない街」
というのが、一般的になっていて、それは、都心部に限ったことではなく、田舎街においても言われていることではないだろうか?
特に、コンビニというのが、基本、24時間営業ということになっているので、さらには、ファミレスでも、24時間のところもあり、
「学生が勉強するには、ちょうどいい」
という感じにもなっていた。
高校生は数名、屯して勉強している姿など、今に始まったことではない。昭和の頃から、すでに、
「眠らない街」
は、徐々に郊外にも増えていったのである。
しかし、昨今では、その状態に陰りが出てきているのだった。
というのは、
「世界的なパンデミック」
というものが流行ってきたからであり、それは、
「今の時代に、警鐘を鳴らしている」
といってもいいだろう。
パンデミック、つまりは、
「伝染病の大流行」
であった。
ここ数年、世界で起こっている流行は、留まるところを知らない。
しかし、政府は、国民の命などどうでもいいとでもいうかのように、
「経済を優先」
ということで、人流抑制を伴う、発令を行おうとしない。しかも、各自治体も同じことで、要するに、
「金を出したくない」
ということなのだろう。
それならそれで、ちゃんと説明すればいいものを、
「経済を回す」
ということを言い訳にして、宣言をしないというのは、いかがなものであろうか?
ただ、民間企業もさらに輪をかけてひどくなっている。
特に鉄道会社などは、最終電車を一時間以上前倒しして、まるで宣言が出ていた時のように、
「午後11時には、すでに後は最終電車だけ」
というようなひどい状態だ。
これも、パンデミックを言い訳にして、
「最終を遅くまで走らせていても、赤字になるだけだ」
ということであろう。
これは、パンデミックの前からのことで、本当は最終を前倒しにしたいと思っていたのを、今回のパンデミックを言い訳にして、自分たちの都合のいいように、最終を辞めてしまおう」
という、悪質な考えである。
まるで、消費税の時の、
「便乗値上げ」
のようではないか。
それを考えると、
「いかに民間もひどいか?」
ということである。
だから、最近では、コンビニまで24時間ではなくなり、ほとんどのファミレス、ファストフードの店が、キリのいいところで閉店時間を迎えるようにしている。
完全に、
「人件費をいかにねん出するか?」
ということなのであろう。
それを思うと、
「政府も民間も、同じ穴のムジナだ」
と言えるのではないだろうか?
草木も眠ると言われた、
「丑三つ時」
であるが、この丑三つ時というのは、元々、方角のことである。
0時を来たとして見た時に、東北東の方向が、ちょうど、丑三つ時である、午前2時の方向にあたる。
この方向は、そもそもが、
「鬼門」
と呼ばれるもので、不吉の現れであった、
「読んで字のごとく」
ということで、
「鬼が出入りする門」
ということで、名付けられたといってもいいだろう。
だから、今では考えられなくなったが、人が出入りすることのない午前二時というこの時間に、不吉な時間である、
「鬼門」
というものを結びつけてくることで、
「草木も眠る丑三つ時」
という言葉が生まれたのだろう。
一日のうちで、似たようなことが言われている時間帯というのが存在する。
それは、夕方の時間帯で、こちらも、
「逢魔が時」
という不吉な名前を賜っているのである。
この時間帯というのは、いわゆる、
「夕凪」
と言われている時間に近いものである。
というのも、
「風が吹かない時間が、夕方には存在する」
というものだ。
海水温と、地表の温度の微妙な差や、温度が交差するあたりに起こる自然現象なのだろうが、その時間帯に、不思議と、事故が起こったりするというのが、実しやかに囁かれたりしていたのだ。
これには、根拠はある。
というのは、逢魔が時と言われる時間帯は、
「目が見えにくくなる時間帯」
ということでもあった。
というのも、光の屈折の微妙な角度から、瞬間的に、
「色を感じなくなる時間がある」
という。
だから、信号機が見えにくかったり、保護色によるものなのか、まるで色盲になったかのようになることで、その分、事故が多いのだろう。
しかも、それを本人は、
「見えている」
と思っているのだから、完全に錯覚しているということである。
それを思うと、
「事故が起こりやすいというのも分かる」
というものである。
とにかく昔の人は、自然現象や方角を、被害が起きやすい時間帯に何かの理由をつけて、表すようにしていたということなのであろう。
「逢魔が時」
にしても、
「丑三つ時」
にしても、問題は、錯覚なのではないだろうか?