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血の臭いの女

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 美穂は、そんな立憲君主制の時代を挟んだ、戦前、戦後と呼ばれるそれぞれの時代の探偵小説を読むのが好きだったのだ。
 それぞれの時代で違いはあるだろうが、問題は、戦時中を挟んでいるということである。
 とにかく、戦時中というのは、何をおいても戦争遂行のために、自由すら制限されるという時代だったので、探偵小説のような、俗世間的な小説は、悪書ということで、廃刊になったら、
「書いてはいけない」
 ということになった。
 戦争が激化してきて、長期化してくると、
「敵国のものはすべてダメ」
 ということで、言葉に外国語が入るものですら、禁止になったほどである。
 今から考えれば、
「英語を話さないといって、戦争に勝てるわけではないではないか」
 と、実にバカバカしく思えたのだろう。
 しかし、これは大まじめなことである。
「戦時中は、気の緩みというものが、大きな弊害となる場合がある」
 ということだ。
 特に、誰か一人でも、戦争反対ということを言い出して、もし、それに対して何ら対策も打たない自由国家であれば、あっという間に戦争反対運動が巻き起こり、戦争遂行どころではなくなってしまい、内部から、国家が崩壊してしまいかねない。
 そうなると、外敵は、一気に襲い掛かって、あっという間に国が占領されてしまうことになるだろう。
 そうなると、植民地となるか、少なくとも占領という憂き目に遭い、国民は、全員捕虜という形になってしまう。そうなると、反戦運動どころではなくなるのだ。
 そうならないための、戦争であったのに、占領されてしまえば、本末転倒もいいところだといえるのではないだろうか。
 だからこそ、
「戦争を初めてしまえば、まずは、勝利することだけしか考えてはいけない」
 ということになる。
 だったら、
「反戦という考え」
 は、
「国家を一つにして、外敵と戦う」
 という趣旨に逆らうことになる。
 そうなると、反戦運動を行っている人達だけではなく、戦争に邁進し、それが正しいと思っている人たちまで巻き込んで、国家が占領されるということで、国民全員が、捕虜となるのだ。
 今の時代の企業であっても、そうではないか。
「きれいごとばかりを言っていても、結果は、会社が倒産してしまっては、本末転倒であり、従業員はおろか、一歩間違うと関連会社、関連取引先まで巻き込んで、すべての家族が路頭に迷うことになる」
 というものである。
 だから、少々のことであれば、法律に抵触しないことであれば、企業が生き残るために必死になって、社員が一丸となるという状況とどこが違うというのだろうか?
 国家においても同じことで、
「せっかく、国がよくなるために、戦争をしているのに、それをいまさら戦争反対だなんて、国家を滅亡させる帰化?」
 といって、反戦を唱える人を攻撃するというのは、彼らとすれば、当たり前のことではないのだあろうか?
 それが、日本という国の、当時の体制であり、
「今とは時代が違う」
 ということである。
 だから、あの時代が、
「間違っていた」
 と、ハッキリといってもいいのだろうか?
 もし、今後、日本が戦争に巻き込まれたり、巻き込まれそうになっているのだとすれば、今の憲法のある、第九条で、自衛隊を承認する条文を入れるくらいでは、中途半端ではないだろうか?
 戦時になった場合のことを細かく規定するようなものがなければ、結局国民は何をしていいのか分からず、混乱するだけである。
 そういう意味で、
「平和国家を貫くというのであれば、憲法改正をする必要はなく、もし、今後未来において、有事を想定するのであれば、中途半端なことはできない」
 と言えるのではないだろうか?
 美穂は、当時の探偵小説を読んだり、当時の時代背景を、明治維新あたりから勉強していくと、そう思えてならなかったのだ。
 そんな壮大な時代の違いを勉強しながら、探偵小説に親しむようになってくると、
「やはり、自分も探偵小説を書いてみたい」
 と感じるようになってきた。
 もちろん、戦前戦後という時代の話を書けるということはないのだが、それでも、叙述的なトリックを使った小説は、元から書きたいと思っていたので、大学で書いている時、どこまで書けるかということを考えるのも、楽しいことであった。
 何作品か書いてみたが、果たして、自分が書きたいと思っていたようなものが描けたかどうかわからないが、少なくとも、
「書き上げることができた」
 ということは満足に値するものだったのである。

                 夢の中の三すくみ

 オカルト映画を見たその日の美穂は、なかなか寝付かれないでいた。
 最初の書き出しであったが、その日というのは、最近にはなく、季節外れの暖かさで、急激に気温が上がったことで、余計に寝苦しさがあったのだろう。
 美穂の場合は、一度眠くなってしまうと、一気に眠れるのだが、その途中で、少しでも気になることが起こると、気分が覚めてしまい、そのまま睡魔もなくなってしまうのだった。
 しかも、考えることがどんどんネガティブになっていくので、
「鬱状態に入りやすい」
 と思うのだった。
 そもそも、躁鬱症というものを感じるようになってきたのは、大学に入ってからのことだった。
 下手をすると、
「小説を書くようになってからだったのかも知れない」
 と思うようになっていた。
 ただ、子供の頃苛めに遭っていた時も、似たような躁鬱の感覚はあったような気がする。
 しかし、思春期を迎える前だったので、その頃の感覚は、記憶ほど鮮明ではない。
 まるで、
「前世の記憶のようだ」
 であったり、
「夢の中の出来事のように感じられる」
 というものだったのだ。
 思春期というのを思い出してみると、
「一番遠い記憶だったような気がする」
 というものであった。
 というのは、本来であれば、
「子供の頃、思春期、大人になってから」
 というのが、正しい時系列のはずなのに、記憶の奥に封印されている順番というのが、
「思春期、子供の頃、大人になってから」
 という、少し不可解な記憶なのであった。
 ただ、普通に繋がっているということを考えると、
「記憶の奥の封印に、まるでインデックスか何かがついていて、辻褄を合せるようになっているのではないか?」
 と考えるようになった。
 その感覚というのは、まるで、
「デジャブ」
 という現象への、
「辻褄合わせではないか?」
 と感じられるのだ。
 昔の記憶の繋がりが、いかにうまくかみ合わせるかを実現するために、
「昔にも似たような感覚があったような」
 という架空の意識を今の記憶から植え付けるということを辻褄合わせとして、意識することになるのではないか?
 美穂はそのように考えるのであった。
 その日は、確かに夢を見ていた。
 夢を見ていたか、見ていないかというのは、あくまでも、その時の感覚によるものなのだが、自分では、
「夢というのは、基本見ているものだ」
 と思っているのだった。
 つまり、夢を見ていないというのは、
「忘れてしまっている」
 という感覚がマヒしているからではないかと思うのだった。
 つまり、
作品名:血の臭いの女 作家名:森本晃次