血の臭いの女
その世界において、感じたことは、次に小説を書こうとすると、その間に、広がった、
「俗世間」
というものが邪魔をするので、
「前に書いていた時の感覚を覚えていない」
ということが多かったりする。
それを考えると、
「前にも、似たようなことを感じたことが結構あった気がするな。しかも、一度ではなく、何度でもなんだけどな」
と感じるのだ。
ちょっと考えると、それが何だったのかを思い出すことができ、比較的難しい感覚ではないことで、思わず、自分で笑ってしまいそうになるのを、意識してしまうのだった。
「ああ、夢の世界のことか?」
と感じるのだが、
「確かに夢の世界というのも、目が覚めながら、忘れていってしまうところがあるんだよな」
と思うと、
「夢を見たのか見なかったのか?」
ということすら分からなくなってしまう自分を不思議に感じるのだろう。
それが小説を書いていて、小説世界に入りこんでしまい、こちらの世界に戻ってくる時に。次第にその内容を忘れてしまうという意味では似ているだろう。
しかし、小説の世界では、夢の世界と違って、
「現実に引き戻される時、夢であれば、次第に忘れる感覚があるのだが、小説の場合は、それを意識しない」
ということであり、
「そのため、また執筆しようと考えた時、前の内容を覚えていないことが自分の中で、不思議に思えることだという考えがなく、ただ、焦りしか残らない」
というものであった。
だから、
「プロットが大切だ」
というよりも、
「書きながら、書いている内容を箇条書きでもいいから、残しておく方が、次回また、頭から小説の内容が消えていたとしても、自分の中で考えて書いている以上、完全に抜けてしまうわけではない」
ということで、
「小説を書くことに何も、法則のようなものはなく、別にプロットのようなものがなくても書くことができるという人は、プロットなしで書けばいいのだ」
ということであった。
小説に興味があるのかということで声をかけてくれた人は、当時の部長をしている人で、
「どうして私に声をかけてくれたんですか?」
と再度聞いてみると、
「まるで昔の自分があんな感じだったんだろうなって思うと、声を掛けたくなったんですよ」
といってくれた。
それを聴いて、美穂は満足した。
いや、満足というよりも、
「スッキリした」
といった方がいいかも知れない。
モヤモヤしたものがあったわけではないか、それよりも、単純に、
「知りたい」
という思いだった。
思春期の後の感情に近いものがあるということを感じると、
「やっぱり、このサークルに入ってよかったな」
と感じたのだ。
そして、同時に、
「何かを作るということが、私にとって、至高の悦びとなるんだ」
と感じたのだった。
毎日というものが、それだけでまったく違った長さに感じられ、
「あっという間に過ぎてしまった」
ということを感じるのだった。
書いていた小説に、
「花が咲く」
ということはなかった。
実際に、少しは、
「何かの新人賞にでも、入賞してくれれば」
という思いはあった。
もちろん、そこから、
「プロになる」
という思いがあったわけではない。
というのも、プロになるというのが、どういうことなのかということを、自分なりに分かっているつもりだったからだ。
まず、プロになるということは、
「出版社と、契約するか?」
あるいは、
「フリーの作家としてやっていくか?」
ということになる。
出版社と契約するということは、出版社の決めた企画に沿ったものでなければならない。いくら自分が書きたい作品があっても、それに沿っていなければ、ボツにされ、下手をすれば、二度と原稿要請がないという、いわゆる、
「飼い殺し」
のようになってしまうかも知れない。
フリー作家になれば、企画も自分で考えて、それを持ち込む形になる。
きっとこちらの方が難しいのではないだろうか?
どちらにしても、
「主導は出版社であり、作家の意見や考えは二の次だ」
ということだ。
それは当たり前のことである。お金を出すのは、出版社。作家は、
「雇われている」
というだけだからである。
作家にももちろん、
「得手不得手」
あるいは、
「好き嫌い」
だってあるだろう。
好き嫌いがそのまま、得手不得手につながる場合だってあり、特に小説を書くというのは、デリケートな作業であり、創作という、
「ものを生み出す」
という難しい仕事である。
それを、型に嵌めてしまうと、
「できる人、できない人」
に別れるだろう。
もちろん、できない人は、そこで、
「プロとしては失格」
という烙印を押されてしまう。
新人賞受賞には、自分の得意なところを自分で選んで応募すればいいわけで、たくさんの新人賞があり、どこが自分の作品にふさわしいかということを研究すればいいわけで、入賞できるかできないかは別にして、その時点では、
「作家主導」
なのである。
しかし、受賞して、出版社と契約をしてしまうと、後は、出版社の意向に沿わなければ、切られてしまっても、それは当たり前のことである。
これは一般の会社だってそうだろう。入社試験、そして面接を経て、入社ということになるが、あくまでも、
「その会社の仕事を一社員として、遂行する」
という契約なのだから、
「俺はそんな仕事をしたくない」
といってしまうと、あっという間に首になるか、左遷されるかになるだろう。
「子供がいて、学校を変わらないといけないから、転勤ができない」
といっても、解雇の理由になる。
ほとんどの会社は、
「就業規則」
というものがあり、それに従わない社員は、解雇できるということになる。
出版社と恵沢する作家はある意味、
「契約社員」
というような形であり、それだって、就業規則があるのだから、趣旨にそぐわない作家は切られたり、干されたりしても、文句はいえないのだ。
だから、小説家というものになろうと思わず、
「自分の作品を、書ける時に書く」
というスタンスで行こうと思うようになった。
そして、その作品が、
「いずれ、一冊でいいから、本として出せればいいな」
と思うようになっていた。
そういえば、昔、
「自費出版社系の会社」
というものがあり、それが、
「詐欺商法だった」
という事件があったのを覚えている。
まだ、自分が小さかった頃だったと思うが、何となく、そういう事件があったという意識だけが残っているが、意識として残っているのは、小説を書きたいと思い、書けるようになって、誰もが思う。
「小説家になりたい」
あるいは、
「本を出したい」
という思いに至った時、
「どうすればいいか?」
ということを、ネットでググってみたことで出てきたものだった。
「ああ、これはひどいな」
とも思ったが、よくよく調べてみると、
「いかにも、詐欺だ」
という臭いがプンプンしていた。
そもそも、やり方が自転車操業で、
「どこまでが本当にできることなのか?」
と疑いたくなるものだった。
どうやら、