同一異常性癖の思考
「自己満足というものを、いかに自分の中で納得させることができるのだろうか?」
という考えが重要であり、その思いが、
「逃げに回った自分を制することができる」
というところまで導いてくれるのではないだろうか?
それが、
「勧善懲悪」
というものだ。
そんな、
「勧善懲悪」
というと、どうしても、テレビドラマ、それも、時代劇というものが、その世界を描いていることが多い。
例えば、
「葵の御紋」
の入った印籠を差し出すことで、悪がひれ伏すという世界であったり、
さらには、刺青を見せることで、悪党にその印象を植え付け、なぜかお白洲において、それを披露することで、悪党どもが、さらにかしこまるというものだったりする。
そもそも、
「なぜ、最初に葵の御紋を出さないのか?」
ということである。
裏の話とすれば、一言、
「尺の問題」
といってしまえばそれまでで、完全な、舞台効果ということである。
しかも、いつも出すパターンは、
「田舎爺風情が、大名屋敷であったり、代官屋敷に乗り込んで、相手の悪事を、罵るような形で暴露して相手を逆上させ、相手が怒り狂って、出てきた家臣の兵を殺傷したうえで、最後に、やっと印籠を出す」
ということである。
本来なら、最初から印籠を出していれば、別に斬り合いになることもなく、相手もかしこまるであろうに、それをせずに、切り合いになるから、実際に、庭は、
「死骸の山」
だったに違いない。
そんな殺伐とした状況で、しかも、なぜか、印籠を出した後は、死体が消えているという、怪奇なのだ。
よくそんな状態で、やっと印籠を出して、いかにも、
「世直しをした」
というようなことが、ぬけぬけといえるものである。
「斬り合いにならなければ、自分たちだって、危ない思いをしないでいいはずなのに」
と、子供心に思った人も多かっただろう。
当然のことながら、迫田刑事も同じことを感じていた。
しかし、それを感じる人の方が、実は見ていたりするものだ。
というのも、
「パターンが分かっているからこそ、面白い」
という感情が人間にはある、
昔のバラエティ番組で、まったく同じパターンで、少し脚色が違っているだけの番組があった。
要するに、
「ドラマ仕立てのストーリーだが、セリフはすべて、一発ギャグで作られている」
というようなストーリー展開で、
「そのセリフだけは、パターンを変えなければいけない」
と言った感じであろうか。
その番組を覚えているから、勧善懲悪の時代劇が面白いというわけではなく、この番組の面白さを分かっているから、昔のバラエティが分かるのだろう。
今になって思うと、
「ワンパターンの番組が、一番面白かったのかも知れない」
と思った。
あの頃から、
「何かをしながらテレビを見る」
ということが多かった。
宿題をしながらテレビを見たり、何かの捜索をしながらテレビを見ていたりしたものだった。
その何かというのは、
「絵を描くこと」
であり、中学時代などでは、美術部に入って、結構コンクールで入選したりしたこともあった。
今ではそこまではしなくなったので、刑事課の人のほとんどが、そのことを知らないはずである。
絵を描いていた頃のことだったが、ちょうどその頃に友達になった人の父親が刑事だったのだ。
当時、勧善懲悪であったが、刑事というものには、どちらかというと嫌悪感を抱いていた。
元々がワンパターンの話としてのバラエティによる勧善懲悪だったので、大人になって考えると、
「あの時の勧善懲悪って、本当に自分の意識だったのだろうか?」
と感じたほどだった。
バラエティの面白さに載せられて、ただ笑っていたことを、自分の中で、ワンパターンの時代劇を勧善懲悪だと思っていたので、次第に大人になるにつれて、
「本当に子供のような気持ちで見ていたんだ」
と思うと、本当に勧善懲悪の代表であるかのような時代劇だけではなく、今のリアルな警察官までが、
「白々しい」
と思うようになっていたのだった。
だから、友達のお父さんが、
「警察官だよ」
と聞いた時、まるで、自分の敵であるかのように感じた。
といっても、自分が悪いことをしているからの敵という意味ではなく、
「ライバル」
という意識で、
「好敵手」
という、読んで字のごとしだった。
敵対しているといっても、嫌悪や憎悪ではなく、リスペクトはしている感覚であった。
つまりは、そんなことを考えていると、
「僕に本当の、善悪の区別なんてつけられるんだろうか?」
という思いもあり、さらに、
「警察にもできるんだろうか?」
とも感じた。
「自分にできないものを、警察になんかできるはずがない」
と感じたが、それはまるで、
昔、トレンディドラマと言われたものが流行ったものを、再放送で見た時だっただろうか?
そのドラマでは、警察における。
「縦割り社会」
であったり、横のつながりにしても、
「縄張り意識」
などというものを、それまでは、触れられることのなかった、
「警察の内情」
ともいうべき、内容は、たぶん、それまではタブーだっただろうが、ドラマで演じるようになったのは、センセーショナルだったといえるだろう。
そんな時代における警察は、逆に、
「コンプライアンス」
というものが言われ始め、それまでは、警察による、
「国家権力」
によって、
「隠れたところで、拷問や自白を強要するというようなことができなくなった時代」
でもあったのだ。
優秀な弁護士などに当たると、警察にちょっとでも、暴力的な態度を取らせ、それに乗じて、白状するという状態で、起訴させて、今度は法廷で、それをひっくり返すというわけである。
警察はまんまと罠に嵌って、
「自白を強要されました」
といって、前言撤回をされると、これからの裁判において、裁判官らの心証が、著しく悪くなるだろう。
下手をすると、
「警察の提出資料はあてにならない」
と言われて、結果、
「再度捜査のやり直しということになりかねない」
ということである。
そんな、警察組織に身を置いていると、子供の頃に目指そうと思った、
「勧善懲悪」
とは、少し違っているように思う。
ただ、迫田刑事は、自分の中で、
「今まで、自分が感じていた勧善懲悪というのが、いわゆる世間一般の勧善懲悪とは違っていたのかも知れない」
ということであった。
だが、自分が、
「歪んでいたのかも知れない」
と感じたのは、今のように、警察に入ってからのことだった。
歪んだ勧善懲悪で見ていた方が、警察組織の歪みを、それほどまでに、
「おかしい」
と思わないのかも知れない。
というのは、
「俺の考えていた勧善懲悪はおかしい」
ということを考えたとすれば、もっと、警察組織に対しての歪みを感じることができて、さらに、警察に対して、自分の中の勧善懲悪というものが、ジレンマに陥り、それこそ、
「刑事ドラマ」
というか、
「人間ドラマ」
としての、展開が起こってくるというものであろう。
それがそれほどなく、ただ、
「事件解決」
あるいは、
「真相の解明」