同一異常性癖の思考
「探偵小説で謎解きされるくらいなのだから、実際の事件ともなると、生身の人間が、考えることなので、プレッシャーもあれば、感情も出てくるというものだ。そんな状態において、考えれば考えるほど、ボロが出てくるというものであり、加算法であるはずなのに、いつの間にか減算法になってしまうことで、完全犯罪が不可能となる、完全という言葉は読んで字のごとしで、100%以外は、0でしかないのだ」
と言えるのだった。
捜索願
その白骨死体が誰なのか?
警察が、いろいろ調べたが、なかなか白骨にまでなってしまうと、DNA鑑定も難しく、
「どうしてそこから発見されたのか?」
さらに疑問として沸き起こった前述のような、
「白骨が動かされた」
という疑惑もあるので、なかなか難しい。
そもそも、これが、
「事件なのか、事故なのか?」
ということになるのだろうが、白骨が埋まっているのが発見され、どこかから移動してきたというのであり、しかも、
「早く白骨を発見させたかった」
という意図が本当にあったのだとすれば、やはり、
「事故というよりも、事件という方が大きい」
ということだろう。
犯人とすれば、ずっと今まで発見されないようにしていたものを、今になって、発見させようと企んだわけで、そこには、明らかな意図が含まれているということなので、そこにどのような意図があるのか、そこが問題であろう。
もちろん、鑑識というか、ここから先は科捜研によるものなのだろうが、解析が行われた。
分かったこととしては、
「死後約10年くらい経っているものではないかと思われますね。骨格の感じから、女性ではないかと思われますが、やはり何とも言えません。顔の極端に小さな男性かも知れませんからね」
ということであった。
「約10年ということは、前後一年くらいと見ていいですか?」
と聞くと、
「まあ、そうですね。それくらいだと思っていいのではないでしょうか?」
ということで、とりあえず、その頃に出された捜索願を調べてみることにした。
何しろ、膨大な数なので、せめて、発見現場管轄の捜索願から調べてみることにした。
もちろん、中には、無事に生きて発見された人もいれば、最悪な結果として、実際に死体となって発見された場合もあった。
そのほとんどは、交通事故だったりという事故が多かったのだが、中には、
「何かの事件に巻き込まれた」
ということもあったりしたのだ。
だが、まだまだ行方不明のまま、放置されているものも相当ある。何しろ、捜索願というものが、どういうものなのかを知っていれば、
「捜索願を出しているから、警察が調べてくれている」
などというあり得ないことを妄想している人がほとんどだろうから、実に虚しいといってもいいかも知れない。
一般的に、
「警察に、捜索願を出したとしても、まず、まともに探してくれてなどいないのだ」
というのも、まず、最初に、
「その行方不明に、事件性があるかどうか?」
ということが問われるのだ。
「何かの事件に巻き込まれた」
つまりは、
「誘拐」
「殺人現場をたまたま目撃した」
などというものであれば、事件性があるといってもいい。
しかし、どちらも、犯人から何かアクションがあったり、死体が見つからなければ、事件性があるかどうかは分からないだろう。
通り魔がまかり通っていたりしている場所で行方不明になったりすれば、捜査もするだろうが、逆に通り魔であれば、死体が発見されるものだからである。
通り魔殺人というと、
「犯人の露出狂的性格から、死体を放置する」
ということが考えられるということで、これも、
「時すでに遅し」
ということになるだろう。
つまり、
「捜索願を出しても、まず事件性があるかどうかという曖昧なことで、ほぼ捜索は行われないだろう」
ということだ。
次に考えられるのは、
「自殺」
ということであるが、
「これも、よほど、何度も自殺未遂の常習犯でもなければ、自殺かどうかということも考えにくい」
と言える。
しかも、自殺を繰り返してはいるが、結果として死んでいないのだから、まるで、
「オオカミ少年」
の話のように、同じことを繰り返していて、結果目的を達成できていないのであるから、
「どうせ自殺なんかできっこない」
と思うのが、警察であっても、しょせんは他人ということで、真剣に心配はしないだろう。
ということになると、
「警察というところ、基本的に、捜索願が出された案件を、真剣に捜査するということはない」
といってもいいかも知れない。
警察とすれば、
「そんなに、人探しがしたいのであれば、そのプロである、私立探偵にでもお願いすればいいのではないか?」
と思っているのかも知れない。
もちろん、そんなことを口にで来るはずもなく、受理だけしておいて、何もしないということである。
「どこかで聞いたような話だ」
と感じた人もいるだろう。
一つ思い浮かんだこととして、
「小説家を目指している人が、持ち込み原稿を出版社に持っていく」
というパターンであった。
普通であれば、
「門前払い」
あるいは、編集者の人が面談はしてくれ、ニコニコ話を聴いてくれるかも知れないが、あくまでも、
「営業スマイル」
でしかない。
素人作家が置いていった原稿は、そのまま、ゴミ箱へポイということだ。
「素人作家が原稿の押し売りになんかきやがって、こちとら忙しいんだ」
と言わんばかりであろう。
ただでさえ、
「作家の先生」
という人が増えてきて、最近では、ネット小説であったり、ネットの世界での配信が増えてきているので、紙媒体での出版は、実際には、減ってきている。
何といっても、本屋自体が街から減っているではないか。
本が売れなくなったことで、本屋が減ってくる。しかし、どんどん増えてきた文学賞や新人賞の受賞者という、
「プロのタマゴ」
もどんどん増えてきている。
もちろん、その中でモノになる作家というと、一握りなのだが、それでも、
「半分プロ」
というような作家が飽和状態なのは確かであろう。
そうなると、本当に、
「ド素人の作家志望」
になどかまっていられない。
それは、正直、昭和の昔からも言われてきていたことで、20年くらい前に流行った、
「自費出版社系」
の会社による、
「詐欺事件」
へと発展して行ったということも過去にはあった。
自費出版社系が、一世を風靡したのは、
「持ち込み原稿が見ずに捨てられる」
ということが、当たり前のように言われるようになったからだろう。
テレビドラマで、
「マンガ家志望」
だったか、
「小説家志望」
だったか忘れたが、原稿を持ち込むと、捨てられるという、それまでならタブーをされていたはずの内容を放送したからだった。
ただ出版社としても、逆に、
「公表してくれた方が、持ち込みが減って、相手する時間が無くなるの有難いことではないか」
と思っているだろうから、きっと、嬉しいことに違いない。
それを思うと、テレビ放送もありだったのだろう。
そこに目を付けたのが、