同一異常性癖の思考
「おままごと」
の世界のように思うことだろう。
では、
「音楽会というところで、自分の力を見せつけようと、意気揚々としている人はいないことになるではないか?」
と思えるのだが、実はそうでもない。
習い事はしているは、コンクールに選抜されること上手ではなく、習い事にいってはいるが、その結果は。
「散々なもので、本当は習い事を辞めてしまいたい」
と思うようになっているのだろう。
それを考えると、一応中途半端とはいえ、まわりの素人連中に比べれば、上手な自分が目立てるとすれば、
「この時をおいてはないだろう」
と考えたのだ。
まわりが皆白けているのが分かっているだけに、
「目立つチャンスだ」
ということで、それまでになかった、
「前に出る」
という性格が表に出てくるのであった。
これには、さすがに先生も、他の生ともビックリである。
先生としても、
「やる気がいる子がいてくれるだけでも、盛り上がりは全然違う」
ということで、その生徒を中心にしようと思う。
そして、他の生徒からしても、
「俺たちは目立たず端の方にいればいい」
と思っていただけに、目立ちたがりがいることは、ありがたかったのだ。
そういう意味で、
「その士気の高さには、
「天と地ほどの差がある」
ということであったが、形は、最後に何とかなるというのは、少しでもやる気のある生徒がいたからに違いない。
しかし、ほとんどの生徒が白けているのは、間違いのないことで、いくら、士気が強い子がいて、うまく成功させてくれたことは有難いというべきであろうが、それだけに、余計にやる気のない人間にとっては、
「時間のムダ」
でしかないのだ。
しかも、
「やりたくもない人間を動員して、いくらやる気のある生徒数名を前面に出したとしても、あれだけのやる気のない生徒のマイナスオーラが出ているのであれば、まったく絵にもならない」
というのが、現状であろう。
それは皆にも分かっていることであって、
「だったら、何でこんなバカバカしいことをしなければいけないだ?」
ということである。
「やりたいやつだけでやればいいんだ」
とも思うが、よくよく考えると、
「やりたい人間だけの有志を募る」
ということにしてしまうと、まったく人が集まることはないだろう。
なぜかというと、
「目立ちたいと思っている連中は、そもそも、輪の中に入れないから、普段は表に出られないのだ。だから、そんな連中だけでオーケストラを組むなどということは、最初からできるはずもないことだ」
と言えるのではないか。
もう一つは。
「他のやる気が出ない人がいるから、自分たちが目立つ」
と思っているのだ。
「上手な人が引っ張っていってくれなければ」
そして、
「へたくそな連中がいることで、自分たちが目立つことができる」
ということであった。
だから、自分たちだけでの音楽会など、最初からなしなのだった。
そう考えると、全員参加の音楽会を、本当に楽しみにしていて、
「これがあるからよかった」
と思っている人はいないと思うのだった。
目立ちたいと思っている子供でも、あくまで、
「音楽会があるから、だったら、自分たちが目立とう」
と思っているだけで、ないならないでもまったく困ることはない。
むしろ、
「その時間、他のことができるはずだ」
と思うもので、
「遊ぶ時間を削ってまで目立ちたいなどと思わけもない」
というものである。
先生だってそうだ。
日ごろの授業、テストの採点、生徒指導から、家庭訪問などでの父兄との交流など、やることはいっぱいなのだ。
秋になると、音楽会や運動会、遠足などといったイベントが目白押しで、
「正直、ウンザリだ」
と思っている先生もいるだろう。
これが仕事なので、文句も言えないし、そもそも、
「先生になりたい」
と思って、ずっと勉強してきて、やっとなった職業ではないか。
国は、教育委員会、さらにPTAなどと、面倒臭いものがひしめいている中で、人間関係がドロドロしている、
「大人の世界」
は、日ごろ子供たちを見ているので、さらに、ドロドロとしたものに感じられるというのは、実に厄介な感覚であっただろう。
父兄の方としても、同じかも知れない。
最近は、どうか分からないが、以前の恰好行事というと、
「他の親に負けないような恰好で行かないといけない」
と思っていたことだろう。
口では、
「子供に恥を掻かせられない」
と言いながら、結局、自分たちの品評会のようなものではないか。
プライドをかけたものであり、親同士のそんなバトルを、子供は冷めた目で見ているか? それとも、自分たちが出しに使われているということが分かっているので、
「いい加減にしてくれ」
と思っているかということであろう。
そう考えると、親の、バチバチのプライドも疲れるばかりで、親の中には、そんなバトルの真ん中にいながら、
「ないならないでいいんだ」
と思っているに違いない。
ということになると、
「誰が、学校行事を好き好んでやっているというのか?」
ということにあるだろう。
しかし、これは昔から決まっていることであり、小学校としての、
「伝統」
というものだ。
しかも、小学校は、義務教育である。そのカリキュラムはしっかりと、文科省が管理することになるので、一つの学校だけが、
「やりたくない」
という理由で辞めてしまうわけにはいかないのだ。
もっとも、本当に、辞めるだけの大義名分があれば、
「許されないわけにはいかない」
ということになるのだろうが、そんな理由がどこを探して出てくるというのか、結果、しなければならないということになるのである。
そんな状態において、
「誰もしたくない」
と心の底では思っていることを、
「どうしてもしなければならない」
という理不尽さがまかり通っているこの世の中では、どうしても、ムダなことであっても、一応はしなければいけないということになるのであった。
警察の捜査というのも、その一つであり、
「今回のガセネタ」
というのを、
「どうせ無駄足になるに決まっている」
と思いながらも、そう思ってしまうと、恐ろしいのは、
「オオカミ少年」
の話のようになってしまうのではないか?
ということであった。
イソップ童話に出てくる、
「オオカミ少年」
という話であるが、
「村に住んでいる男の子が、退屈しのぎに、オオカミが来たと騒いで回ると、皆が自分の言葉に踊らされて慌てふためく様子に快感を覚えるようになると、その子は何度も、同じことを繰り返すのであった。しかし、そのうちに、皆が、その少年のいうことはウソなんだと思うようになり、結果、皆食い殺されてしまった」
というようなお話であった。
この話は、いろいろな見方がある。
一番の教訓としては、
「何度も繰り返していると、信憑性がなくなってくるが、最後には本当のことがあるかも知れないので、信じ続けなければいけない」
ということになるのだろう。