完全犯罪の限界
それなのに、警察が情報を公開しないのか、どれとも、マスゴミに緘口令が敷かれているのか、どちらにしても、犯人が逮捕されてしまうと、その後のことは、裁判になって初めて、
「第一回の公判が行われました」
という報道が行われるだけではないだろうか。
そして、裁判が粛々と行われるが、裁判中継もできず、結果だけが報道される。
本当であれば、
「公開裁判があってもいいのではないか?」
と思うのだが、もしそれを、
「個人の保護だ」
というのであれば、本末転倒ではないだろうか?
いくら警察が、
「真実を突き止める」
といっても、ものによっては、
「世間の皆も知るべきこと」
もあるはずだ。
そもそも、個人の保護というのであれば、世間の風潮としての、
「前科者は、必ず再度事件を再発させる」
とでもいうような風潮をなくそうとしないのだろうか?
難しいというのは分かるが、
「前科者だと分かると、どこも雇ってくれない」
ということで、結局、世間に戻ることができないことから、
「再犯」
ということになるのではないか。
「一度罪を犯してしまうと、もう、世間に戻ることができない」
ということがあるということを徹底させるのであれば、
「本当に、犯罪のない世の中ができるのではないか?」
ということであるが、そんなことは現実的にありえない。
それなのに、マスゴミやコメンテイターは、あくまでも、
「正論がすべて正しい」
としてしか話さない。
「正論がすべて正しいのであれば、そもそも、犯罪など起こるはずがない」
と言えるのではないだろうか?
だから、コメンテイターであったり、マスゴミが正論をいうのであれば、せめて、裏付けくらいがあるうえで言えばいいのではないかと思う。
そもそも、裏付けがあった場合は、コメンテイターがm正論を言えるかどうかということも疑問である。
その時初めて、
「正論というのが、本当に正しいことなのだろうか?」
ということに、気付くはずだからである。
そういう意味で、今のコメンテイターが出てくる情報番組においてのコメントというのは、
「まったく本末転倒な言い分でしかない」
ということになるだろう。
まだ、これが専門家などの話であれば、自分が勉強してきた資料や、集めた情報において、
「本当の意味での、説得資料」
として、説明できるだけのものがあり、それだけ、
「信憑性がある」
というものだ。
だから、よくSNSなどで、後から、
「あのコメンテイターの言ったことは根拠はない」:
と指摘され、
「放送局が謝罪に追われる」
ということが、日常茶飯事になるというものである。
こんな感情を抱いていたのは、実は捜査員の中で、
「迫田刑事」
がこんな感覚になることが多くて、そのせいもあって、
「あまり、捜査員の人と話をしない」
というタイプになってしまった。
まわりの人が感じている迫田刑事のイメージは、
「あいつは、勧善懲悪なんじゃないかな?」
と、あまり話をしないにも関わらず、
「完全にバレている」
といってもいいだろう。
というのも、
「あいつは、見ていて分かりやすい性格だからな」
と、本当はアウトローな性格がバレたくはないと思っているくせに、実際には、バレバレだったというのは、皮肉なことである。
しかし、こんな性格も、別に嫌われているわけではない。
むしろ、
「皆から好かれている」
といってもいいくらいではないだろうか。
本当は彼らも、迫田に近い考えを持っていて、それを自分で隠そうとすることができるから、普通に隠せばいいと思っているのだろう。
しかし、迫田の場合は、
「一寸でもバレると、誰も相手にしてくれない」
と思うからか、神経質であった。
しかし、迫田は性格的には、
「別に一人になるなら、一人でもいい」
というところがある。
しかし、それだけに、警察としての仕事になると、
「そうはいかない」
と思うことで、余計に神経質になり、
「まわりに知られたくないようにする」
ということを余計に考えるのであろう。
だから、
「まわりと、うまくいかないということに慣れていない」
ということであり、
「普段はそれでいい」
と思っているからであった。
そんな自分の性格を、迫田は本当は好きではないはずなのに、どうしても、
「勧善懲悪」
というのが邪魔をするのだ。
だから、
「警察に入ろう」
と思ったのだし、しかし、入ってみれば、まったく正反対で、
「国民を守るよりも、まずは、警察機構を守る」
ということを教わる。
それは上司から教えられるわけではなく、事件を解決するたびに感じさせられるという実に、皮肉なことであった。
そんな警察機構に対して、
「何とも、本末転倒にしか思えない」
と感じるものを、一種の、
「負のスパイラル」
と思えてならないのであった。
ただ、勧善懲悪というものすべてが、本当に正しいものなのかどうなのか、考えさせられるところに来ているといってもいいだろう。
迫田刑事は、
「警察内部で似たような考えを持っているのは、桜井刑事だ」
と思っていた。
ただ、性格的には違うので、衝突はしょうがないと思うようになっていたのだ。
迫田刑事が気になっていたのは、
「行方不明になっている奥さんである平野聡子の旦那のこと」
であった。
元旦那は、奥さんが入信してから少しして、
「事故で死んだ」
ということが気になったのだ。
「他の人が気にならないようなことが、たまに気になって、それが、実は事件の核心をついていた」
ということが今までに何度かあったことで、心無い連中は、
「今回も、頼むぞ」
と、無責任にいうやつがいる。
「こっちの気持ちも知らないで」
と言いたいのだが、それはあくまでも、まだ社交辞令の範疇だった。
それよりも、
「事件の核心」
というものよりも、楽しんでいるだけだと思うやつもいたりして、それが苛立ちに繋がるのだ。
普段は、
「事件をネタにするなんて不謹慎な」
と言っているような連中なので、いかにも、
「不謹慎な」
ということであるが、まさにその通りではないだろうか。
ただ、今回の、
「旦那の交通事故死」
というものが、もし事件と結びついているということであれば、
「これほど、話が厄介なものではない」
というか、
「実に都合のいいものではない」
と言えるだろう。
「まるで、推理小説のようではないか?」
と言い出しかねない。
特に刑事ともなると、そういう実際に事件に、そういう迷信めいたことを組み合わせるのを嫌う傾向がある。
やはりどうしても、
「事件解決には、頭ではなく、脚で稼ぐものであり、靴がどれほどすり減ったか? ということが重要だと言われるような、いかにも昭和時代の考え方」
というのが、いまだに重要だと思っている人がいるということであろう。
そんなことを考えていると、
「さすがに旦那の事故死までを考えるとなると、それこそ小説の中のようではないか?」
と言われるのがオチであろう。