完全犯罪の限界
なるほど、桜井の睨んだ通り、まっすぐに血糊の浮かんだ、線が数本、引っ張られた後のように見えていた。
「ああ、やはり、どこかで殺してここに運び込んだんですね?」
ということが分かった。
犯人とすれば、それが分かることくらいは、別に問題ではなかったということか。それよりも、
「どこで殺したのか?」
ということであったり、
「犯人が誰なのか?」
ということを警察が分かるわけはないとタカをくくっているということn自信を持っているのだろうと思わざるを得ないのだった。
「これは一体誰なんだい?」
ということで、そこに倒れて、いかにも断末魔の顔で、芽をまったくの明後日の方向に向けているのを見つめた。
その人物は男で、年の頃はまだ若い。見た目で、30代くらいであろうか?
このレベルの賃貸マンションを借りるとすれば、一人住まいであっても、不思議のないくらいの男だったのだ。
「管理人さん」
と警部は管理人を呼んだ。
まず、この死体の身元の確認が一番だったからだ。
呼ばれた管理人が入ってくると、その死体を見て、ビックリしていた。一度は入ろうとしていたが、臭いに耐えられなかったのか、電気だけはつけて、そのまま表に行ってしまっていたのだ。
それを呼び止められたのだから、管理人も、
「因果な商売だな」
と思ったことだろう。
それでも、さすがに、殺人事件が自分の管理しているマンションで起こったのだから、警察を相手に、
「知りません」
といって、しらを切れるわけはないだろう。
中に入ってきて、
「管理人さん、悪いけど、この人はこのマンションの住民かどうか確認してもらえますか?」
と、警部は聴いた。
管理人は、その断末魔の目に睨まれたようで、最初は直視できないようだったが、すぐに覚悟を決めたようで、
「いえ、私が知っている人ではありません」
ということであった。
「じゃあ、ここの住民ではないと?」
と言われ、
「マンションの中には契約してきた方以外の家族でお住まいの方がいますので、一概には確定的なことは言えませんが、少なくともこの部屋の人ではないと思います。何しろ、この部屋の契約者は、女性でしたからね」
と管理人が言った。
「ほう、女性なんですね?」
と聞かれ、
「ええ、そうです、まだお若い女性でしたよ。ただ、化粧が派手で、香水もプンプンと匂いをさせていましたので、夜の商売の方かな? と思いました」
と、管理人はいう。
「結婚してはおられなかったんですね?」
というと、
「ええ、最初に契約された時は独身で一人暮らしということでした。そういえば、確か最初に契約された時は、どこかの企業の秘書のようなことをされているように記憶しています。普通のOLでは一人で生活はしていけませんよ」
というのであった。
桜井刑事は、先ほどの脇坂の話を思い出していた。
「確か、騒音がうるさいといっていたっけ」
というのを思い出して、
「管理人さんに聞きたいんですが」
と、桜井刑事が声を掛けた。
警部は、
「桜井は何か握ってるな」
と思ったので、後は任せることにした。
「何でしょう?」
と管理人も、少し落ち着きを取り戻したようで、平然とした顔をしていた。
「実は、隣の住民である脇坂さんに聞いたんですが」
と前置きをすると、管理人が、一瞬、
「ぎょっとした目に、怯えのようなものが走った」
ということを、桜井刑事は見逃さなかった。
「脇坂さんがいうには、いつも306号室の住民がうるさいからといって管理人に苦情を言ったことがあるといっているんですが?」
と言われ、どうやら、管理人の不安が的中したのだろう、明らかに落胆した表情になった管理人は、
「ああ、そうですね。以前にそんなことがあったのを思い出しました。確かに、うるさいという口調がありましたね」
と、
「もうごまかせないか」
と観念したのか、管理員は、どうしようもないという感じで、白状するしかないのだった。
「管理人さんは、その時、どのような対応をされました?」
と桜井刑事が聴くので、
「ああ、あの時は、住民の女性とちょうどばったり一階で会うことがあったので、その時、少しですが、軽く注意を促しました」
という、
「どのような?」
と聞かれ、少し考えていたようだが、
「別に、細かいことまでは言いませんよ」
というと、それを聞いた桜井刑事は、
「その時に、脇坂さんの名前か、部屋番号のことは言いましたか?」
と聞いた。
「いいえ、そこまでは言いません。逆恨みをされると困るでしょうから」
ということであった。
それを聞いた桜井刑事は、
「うんうん」
と頷き、それ以上は何も言わなかったが、それを聞いていた警部が今度は口を挟んだ。
「管理人は、近隣住民の苦情を聞いたということですね? それをもう少し詳しく教えてくれませんか?」
と言った。
これは桜井刑事が聴きたいことであったのだが、桜井刑事は、その質問を上司に譲ったのだった。
管理人は、おもむろに口を開いた。
「最初は、隣の夫婦がうるさいといってきたんですよ。でも、私は隣は一人暮らしだと思っていたので、最初はおかしいなと思ったんです。何か、脇坂さんが勘違いをしているんじゃないかと思ってですね。たとえば、他の部屋の騒音を、隣の部屋だと思い込んだとかですね。マンションというところは、そういうところがありますからね」
と言った。
「なるほど、それなら、管理人の意見にも一理ある」
と桜井刑事は思った。
しかし、警部は、
「でも、管理人は、彼女が派手な感じの女性だと思ったわけでしょう? ということは、男関係も激しい女性だとは思わなかったんですか?」
と言った。
確かに、その考えはありなのだろうが、本来では口にするだけでも、アウトという女性蔑視の言葉であるが、こと、
「殺人事件の捜査」
ということになれば、それもしょうがないことであろう。
と、管理人も、少し観念してきている。
「確かに刑事さんのおっしゃる通りですけど、やっぱり管理人といっても、人のプライバシーには入り込めませんからね。それに、苦情を言われたからといって、そのすべてを丸く収めることなんてできるわけもないし、必ず、どちらにもそれなりの妥協が必要になるということも分かっていますからね」
という。
管理人の顔を見ていると、
「私はだてに、何年も管理人をやっていない」
と言いたげであった。
どの自信が、過剰なのかどうかは、誰にも分からない。
ただ、どうやら、
「管理人は、女性にはハッキリと話したわけではなさそうだ」
ということが、警部にも桜井刑事にも分かった。
だとすれば、管理人と、女性との間に、
「今回のことで、少なくともトラブルはない」
と言えるだろう。
「桜井君はどう思うかね?」
と聞かれて、
「ああ、そうですね。管理人は、決してウソを言っているようには私には見えませんね」
と桜井がいうと、管理人は、あからさまに安心したように身体の力がガクッと抜けているようだった。
それを見た桜井刑事がすかさず、
「でも、管理人さんは、ひょっとして、その男を知っていたんじゃないですか?」