損得の犯罪
のような麻薬に抑えが利かなくなって本を出すということは、家庭崩壊に、容易につながるというものである。
そういう意味で、詐欺商法でも、今のように実に巧みなやり方で、例えばターゲットを、
「機械などに疎い」
と言われる老人にしたり、巧妙なものも多い。
昭和の終盤の頃に起こった詐欺事件も、今から思えば、
「やり方がちゃちい」
ともいわれるかも知れないが、今に至る、
「巧妙な手口」
ともいえる詐欺としての、さきがけのようなものだった。
それを思えば、いかにこの詐欺がセンセーショナルなものであったかということが分かるというものである。
この詐欺というのは、いわゆる、
「老人をターゲットにしたもの」
ということが、一番の特徴であった。
しかも、それを会社ぐるみでやっていた。老人の、孤独さ、寂しさを利用した方法であり、一人暮らしの老人の家に巧みに潜り込み、社員がまるで、子供になったかのように、その老人に甘えてみたり、老人の介護を進んでやってみたり、中には、色仕掛けという、
「オンナを武器」
にする輩もいたりした。
そうして安心させておいて、
「金塊」
のようなものを売りつけるという悪徳商法であった。
やり方としては、相当ありとあらゆる詐欺の方法が用いられたようで、それだけ、法律も、
「穴があった」
ということであろう。
そういうこともあったから、今の法律が出来上がったといっても過言ではない。
だが、この時のこの詐欺だけは、騙された人間を悪くいうことはできないに違いない。相手が老人で、情に訴えて近づいてくるのだから、防ぎようがない。
しかも、巧みに相手に手の内を見せないなどというやり方は、企業ぐるみであるということを証明しているようだ。
最初は、一つ一つを細かくみれば、ちゃちいのかも知れないが、全体として仕組まれた方法は、相当にひどいもので、一度騙されてしまうと、後は言いなりであろう。
何といっても、騙されている本人たちは、ずっと騙されているという意識がないのだから、詐欺が明るみに出た時には、すでに、莫大な数の、そして、莫大な被害額になっていたことだろう。
そんな詐欺行為は、
「やる方が悪いのであって、騙された人間は、老後の貯えを根こそぎやられてわけだから、詐欺というものがどれほどひどいものかということを、表しているに違いない」
と言えるだろう、
しかし、自費出版社系の会社に騙されて、本を出した人を、
「可愛そうだ」
と言えるのだろうか?
そもそもが、
「橋にも棒にもかからないような小説を本にしたからといって、小説家になれると、本気で思っているのだろうか?」
ということである。
必死に小説家になりたいと思って、せっせと公募作品を作り、新人賞に応募して、やっと何回目かで、入賞を果たして、そこで、
「小説家としてのスタートラインに立った」
と言えるのだ。
それでも、次回作がしっかりできなければ、作家としては、中途半端、そんな状態で、会社を辞めて退路を断ってしまうと、どうしようもなくなってしまう。
「そんなに甘い世界絵はない」
ということを思い知らされても、会社を辞めてしまえば、後の祭りである。
そもそも、あの詐欺集団というのは、元々、バブルが弾けたことから出てきたものだ。
残業をしなくなり、
「アフターファイブをどのように過ごそうか?」
ということで、
「小説でも書こうか?」
という、いわゆる、
「俄か作家」
というものが増えたからだろう。
作家といっても、プロから、
「ただ、遊びで書いているだけだ」
と思っている人まで、ピンからキリである。
詐欺出版社は、そんな連中に目をつけた。
「ただ、趣味で時間つぶしくらいにしか思っていなかった連中が飛びつく」
といってもいいだろう。
そもそも、作家になりたいと思って書いていた人は一定数いるだろうが、その数はたいしたことのないものであるのは間違いないだろう。
そんな中、俄かで増えてきた連中が、
「何か面白そう」
といって、原稿を送ってみる。
その時は、もちろん、小説を書き始めてまだ日が浅いということもあるだろうが、この時期が本当は一番有頂天の時期なのかも知れない。
というのも、前述したが、
「小説を書くということの最初のハードルが、最後まで書き上げること」
というものだ。
つまり、
「最後まで書き上げることが一番の悦びであり、それができるようになると、有頂天になるのは当たり前である」
と言えるだろう。
「小説を書けるようになり、それを見てくれる人がいる」
それだけでも至高の悦びなのに、それを批評してくれて、最後には、褒めちぎってくれるのだから、
「自分が、まるで小説家になった」
という気分になるのも、確かに無理もないことだろう。
その心理に関しては、しょうがないと思うし、そこまでは、昭和の事件のように、
「騙されるのは仕方がない」
と思う。
しかし、今度はそれを本にして、実際に売りだそうということであれば、話は別だ。
一冊の本を作るのに、1,000部という単位で作り、
「定価1,000円を販売価格にする」
というものである。
単純に考えて、
「総額100万円」
ということになるだろう。
「定価というものは、原材料費から、製本までの製造原価に、必要経費や営業経費などを加えた金額に、利益分をかさまししてつける値段である」
ということではないのだろうか。
つまり、製造原価、経費、利益をすべて含めた値段が、1冊1,000円ということになるのだ。
しかし、出版社は、それを作家に、
「協力出版なので、お互いにお金を出し合う」
ということでいってきているのだから、普通に考えれば、定価の半額、50万円がいいところだとおもうだろう。
しかし、実際にやつらが言ってきたのは、
「150万円の出資をおねがいしたい」
という見積りであった。
こんなものは、いくらなんでもおかしいと思い聞いてみると、
「それは、国会図書館に置いたり、流通コードを付けてもらうためのお金の分も入っている」
という、しかし納得がいかず、
「それも普通なら、定価の中じゃないのか?」
と聞くと、黙り込んでしまった。
もう、この時点で、さすがに、
「詐欺だ」
と思ったが、
「でも、それなら、こっちは一銭も使わずに、相手に添削させればいいんだ」
と思い、
「ここから先は、こっちが利用してやれ」
と考えたのだった。
最初はやつらも、こっちの狙いが分かったのかどうか分からないが、決して相手の見積もりにのるようなことがなかったら、今度は相手がしびれを切らして。
「今までは私の裁量で、あなたの作品を、出版会議に挙げてきましたが、今回が最後になります」
というではないか。
要するに、
「今ここで、出版をしなげれば、あなたの作品が、協力出版として挙げることはできない」
と言い出したのだ。
こちらとしては、
「何言ってやがる。マウントを取ってきたな?」
と感じた。
そして、そのマウントは、完全な上から目線で、今まで、
「あなたの作品が素晴らしいから」