小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

損得の犯罪

INDEX|7ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

 とすれば、溜まったものではないが、昔のような、
「気を付けてさえいれば、何とでもなる」
 ともいえるのではないだろうか?
 例えばであるが、
「スリが財布をスル」
 ということであれば、すられないように、気を付ければいい。
「どうすればいいか?」
 ということになるのだろうが、それこそ、いくらでもあるということだ。
 例えば、ズボンのポケットに財布を入れておいて、ズボンのベルトを通す紐のようなところに、ゴム紐で財布を括りつけておけば、
「スリを行う」
 などということは、無理である。
 もちろん、
「はさみを持っていて、はさみで切ればいい」
 ということになるかも知れないが。そこまでして気づかれるかも知れない相手に対して、執拗に狙うだろうか?
 ということでもある。
 ただ逆に言えば、
「絶対にすられるわけはない」
 と思っているので、ある意味、一番安心しきっているということなので、
「これほど狙いやすい相手はいない」
 といってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「スル方」
「すられる方」
 とそれぞれに、イタチごっこのような気がする。
 ただ、すれらないようにしようと思えばいくらでも手段はある。もちろん、昔の時代においてのことであるが、それを、
「ゴム紐で結びつけておくなど、恥ずかしい」
 というかも知れない。
 だとしたら、究極、
「スリのいるようなところに行かなければいい」
 というだけのことである。
 皆が、
「スリが出るから、出かけない」
 ということになると、スリは、この世から消えてなくなるかも知れない。
 もっとも、そうなると、
「スリがなくなる」
 という以前に、経済が回らなかったり、時代というものが、機能しなくなっていたりするのではないだろうか?
 ただ、
「騙される方に、まったく責任はない」
 と、本当に言えるのだろうか?
 確かに、
「騙す人がいるから騙される」
 という理屈と、逆に、
「騙される人がいるから、騙す人が出てくる」
 という考えは、後者に勘しては、解釈の問題として難しいのかも知れないが、本当にそうだろうか?
 正直、騙す人というのも、
「相手に絶対にバレない」
 という保証は一切ないだろう。
 そもそも、
「世の中には、絶対ということはない」
 という発想だってあるではないか。
「限りなくゼロに近い」
 というのは、
「決してゼロではない」
 ということでもあるのだ。
 そういう意味で、
「出版社系の詐欺」
 というものだって、どこかで、
「これは詐欺だ」
 ということに気づくはずである。
 もっといえば、
「ひょっとして詐欺ではないか?」
 とウスウス感じていた人もいたことだろう。
「もしこれが詐欺だったら、俺はもう立ち直れない」
 という人は最初から手を出していないだろう。
「詐欺だったとしても、騙されたのは自分が悪いということで諦めるしかないのかも知れない」
 と思っている人がほとんどではないだろうか?
 だとすれば、
「騙された」
 といって皆が騒ぎ出したとすれば、その中に、本当に困っている人がどれだけいるかということだ。
 もし詐欺だったとしても、
「授業料として、納めるくらいの気持ち」
 でなければ、今頃、借金取りに追われているかも知れない。
 そもそも、
「自分の趣味で、夢を叶えるため」
 ということで、お金を出したのであれば、さすがに、
「なけなしの金」
 を、ポンと出すわけはないだろう。
 そう思うと、騙される方も、ある程度までは予知していたことだろう。それを他の人が、
「これは詐欺だ」
 といって、騒ぎ出したからといって、自分もそれに乗るというのは、あたかも、
「自分は、詐欺に騙されるような、間抜けな人間です」
 というのを口外しているようなものではないだろうか?
 それを思うと、
「騙すほうだけが、すべて悪い」
 という考えは、どこかおかしいのではないだろうか。
 騙す方からすれば、
「騙されるやつがいるから、俺たちのような人間が出てくるんだ」
 と言ったとしても、それに間違いはないに違いない。
「騙す方」
「騙される方」
 それぞれの立場で、
「いたちごっこを繰り返している」
 ということになるのだろう。
 そんな詐欺商法で、潰れた会社も悪いのだが、実際には、
「騙される方も悪い」
 という人がいる。
 確かにそうだろう。実際に、
「自分の本を出したい」
 ということで、最初は自分の貯金をはたいて、それで本を出す資金に充てていた主婦がいたのだが、そのうちに、味を占める形で、
「自分の書いた本を、書籍にしたい」
 と思うようにあると、家族の金に手を付けたり、さらには、借金をしたりするようになると、とんでもないことになってしまう。
 それはまるで、
「依存症」
 に近いものだった。
 精神的には違うのだろうが、感じとしては、
「買い物依存症」
 と似ているのではないだろうか?
 精神的に追い詰められたり、苦しくなると、人間は、
「何かに依存したくなる」
 というのが、一種の依存症で、
「アルコール依存症」
「ギャンブル依存症」
 などが、その代表的なものだろう。
 買い物依存症は、他の二つとは違って、違法性的なものであったり、摂取することで、そのまま運転して交通事故を起こしたりなどということもない。
 しかし、自己満足を、
「お金を使う」
 という禁断の方法という意味では、似ているところがあるだろう。
 完全に、麻薬中毒にも似た効果があることから、その常習性はなかなか治るものではなく、中途半端な治療であれば、
「禁断症状」
 を、引き起こすということになるに違いない。
 そういう意味で、一度、百万単位という金を自分のお金とはいえ、使ってしまって得られた満足感は、完全に中毒性を持つことになるだろう。
 さらなる満足感を得るために、さらに禁断のお金に手を付けてしまうのだ。恐ろしいことだといえるのではないだろうか?
 そもそも、普通であれば、一度自己満足を達成すれば、そこで、一度我に返って、後悔のようなものが襲ってくるのではないだろうか?
 男が性行為の後に訪れる、
「賢者モード」
 のようなものに見舞われれば、そこで一度冷静になれるはずなのだが、女性の場合は、性行為以外でも、
「賢者モード」
 に陥るということはないのだろうか?
 そうなると、もうm歯止めが利かなくなる。本来であれば、一生懸命に働いて稼いだお金ではないか。自分のお金であっても、それを使うことには、どこか、後ろめたさがあるはずだ。
 いや、自分のお金だからこそ、余計に感じるものがあるはずだ。
 その、
「結界」
 を通り越してしまうと、麻薬中毒のように、スーッと気が楽になって、罪悪感が消えてなくなるということであれば、これほど恐ろしいことはないといえるだろう。
 それを考えてみると、
「人間は、一度、結界がそこにあると分かっていながら、それを見逃してしまうということが往々にしてある。それが、人間の踏み入れてはならない世界であったとすれば、もう元には戻れない」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんな、
「依存症」
作品名:損得の犯罪 作家名:森本晃次