自殺後の世界
「情状酌量の余地はない」
ということになるのだろうが、それ以前に、当然のことながら、行われるのは、
「精神鑑定」
であろう。
「耽美主義」
などに取りつかれているというのは、
「まるで、悪魔に魂を売った」
ということで、
「身体を流れる血や、人間らしいという情というものすべてを、悪魔に売るのだ」
ということで、
「血の通わぬ冷徹人間」
と言われるのであろう。
生命維持装置
だから、このような
「悪魔の所業」
と言われるような猟奇的、そして耽美な犯罪というのは、
「基本的に、隠すものではなく、まわりに見せつけるものだ」
と言えるだろう。
そうなると、一種の、
「露出的趣味」
という変質的な性格も、耽美主義にかかわっているということになる。
つまり、
「耽美主義というのは、これでもかとばかりに、まわりに見せつけるべき犯罪なのではないだろうか?」
といっても過言ではないだろう。
「血と肉によって、その美を表す」
ということをテーマにした、それこそ、
「犯罪美術館」
を、犯人は演出しているのだ。
「金を取って見てもらってもいいくらいに美しく仕上がった芸術作品。そこには、花が飾られていて、花の美しさが、美を促している」
といってもいいだろう。
「人はどうせ、俺を悪魔と呼ぶだろうが、悪魔よりもひどいことをしているやつは、もっとたくさんいるじゃないか」
ということを考えていた。
というのも、
「美を追求せずに、女の身体を欲望だけで蹂躙しようとすると、女を汚すことになり、結果その女が凌辱に耐えられなくなり、自らで命を断つようなことになるのであれば、まだ、自分の手で、美として飾られた芸術作品として、飾ってあげることが、本人にとっても、喜ばしいことだ」
と考えているのかも知れない。
「キレイなものは、キレイに飾れる時に、飾ってあげた方が、美しいのだ」
という考えから、
「犯罪者の美学と、その正当性は認められるべきだ」
と考えるのは、許されないことなのだろうか?
もっとも、これは小説の世界である。
どこまでが認められるものなのか、どこからがアウトなのかというのは、微妙であり、誰が判断できるのかというのは、分からない。
だとすれば、書いた本人が、
「正当性がある」
と思っているのであれば、それが正義だといってもいいだろう。
もちろん、法律でもモラルの上でも、それなりの境界線はあるのだろうが、それを決めるのは、ある意味読者であって、読者から非難を浴びれば、それは、
「悪書なのかも知れない」
ということで、あらためて、吟味されるべきものなのだろう。
「絶対に、いい悪いという判断を決めるのは、神でしかなく、神の存在のないところであれば、神に近いところ。小説界であれば、読者ということになるだろう」
とこの作家は思っていた。
だから、編集者の人間にも、耽美主義に対して、
「読者から一定数のクレームがあれば考えよう」
という話をしていたのだ。
みゆきは。ベッドの上のナイフを見た時、その作家のことを思い出していた。
「あの作家なら、このシチュエーションを何と解くだろうな?」
と考えていた。
「ベッドの上に、無造作に置かれたナイフ」
とその状況を、声にならない声で表現してみた。
無造作ということであるが、この場合は、どのように置かれていたとしても、
「無造作」
という言い方しかできないだろう。
ナイフの光が眼を刺している。
その眩しさから、
「目が慣れてきた」
と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
と、思った瞬間、
「耽美主義が頭をよぎった」
と、順序だてて考えることができる。
ということは、
「もし、まったく違う環境で、まったく違うシチュエーションでのナイフの出現があったとしても、同じ感覚になるのではないか?」
と感じたのだった。
「耽美主義」
というものは、ある意味、
「唯物的な発想」
なのかも知れない。
何においても、
「美というものが、最優先」
ということは、
「美至上主義」
といってもいいだろう。
「美学」
という言葉があるが、こちらは、表に出た美しさではなく、人間の内面にある、
「美に対しての考え方」
である。
犯人が、
「耽美主義」
としても、美を追求し、最優先とするその考え方自体が、耽美主義であり、
「美学だ」
と言えるのではないだろうか?
「美学」
であったり、
「美徳」
というのは、人間が内面にしまいこんでいるもので、普通であれば、
「いざという時に表に出すものだ」
というのだろうが、
「耽美主義」
を唱える人間は、そのすべてを、内に籠めるというわけではなく、むしろ、表に出すことで、
「耽美主義のすばらしさ」
を表に出すものとしての考えを持っているのではないだろうか?
だから、
「目の前に放置されたナイフも何かの意味があって、そこに放置されているわけなのだろうが、耽美主義に結びつけるのは、あくまでもみゆきの性格によるものだ」
と考えると、今度は、
「この状況を最初に発見したのが、私だということに、何か大きな意味が含まれているのではないだろうか?
と感じるのだった。
「邪悪の暗黒の星」
というのが、
「光を発しないことで、邪悪だ」
ということであるから、逆に光を放ち目だとうとするこの状況は決して、邪悪なものでなく、それどころかむしろ、
「美の追求だ」
と思うと、
「それこそが、耽美主義のモットーであり、定義、そして、モラルなのではないだろうか?」
ということになるのではないだろうか?
必要以上な、
「美の追求」
は耽美主義ではないのだろうが、考え方という意味では、目立つことは悪いことではないと思うのだった。
そんな耽美杉を頭の中で描いていると、
「そういえば、兄と耽美主義についての話をしたことがあった」
というのを思い出した。
そもそも、
「耽美主義というものを、二人とも否定的というわけではかった」
ということが大前提である。
最初から嫌いだったら、話になるわけはない。大筋では認めているくせに、お互いに、どこかに境界線と持っていて、その微妙な違いによって、
「人は、賛否を考えるのだ」
ということを考えるようになったのだった。
耽美主義というのは、基本的に芸術一般に言えることである。小説のように、表現を言葉でしか伝えられないというものよりも、絵画であったり、写真などの写実的なものの方が、形にしやすいものだが、逆に、限界があることだろう。
しかし、小説のように、漠然としていて、表現一つで、人それぞれの想像から、同じものを見ても、感じ方が違ったりする。
絵画や、写真などでも、
「トリックアート」
のように、
「見え方によって、違った世界を映し出すものは、誰もが一度は完成させてみたい芸術の一つなのではないだろうか?」
と感じるのだった。
そういう意味で、その時の兄との話は、あくまでも、
「小説の世界での、耽美主義」
という話であった。
しかも、もっといえば、最初に話し始めたのは、その、