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自殺後の世界

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 という発想だったのだ。
 死後の世界という表現を聴いた時、何か違和感を感じた。
 というのは、
「死後ではなく、生前ではないか?」
 ということであった。
 ただ、生前という言い方をすると、
「死んだ人が生きていた時のこと」
 ということになるのだが、ここでいう生前というのは、
「あくまでも、前世の世界で生きていた自分の夢」
 ということである。
 だから、あくまでも、
「自分ではない、自分の夢」
 という、まるで禅問答のようなおかしな言い回しになるのだが、それこそ、理屈としては、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
 というような発想であった。
 つまりは、
「今生きている自分は、以前違う人間だった」
 ということであり、その人は少なくとも、地獄には行っていないということであるが、果たして、死後の世界を見たのかどうかも怪しいものである。
 もっと言えば、
「死後の世界を見ずに、いきなり、この世で転生した」
 とでもいえばいいのか。
「死んだその瞬間に、生まれ落ちるはずの魂が、間違って、いや、言い方が悪かったが、吸い寄せられるかのように、予定ではない人の身体に入り込んでしまうという偶然があったのだとすれば、元々、生まれ変わるはずだった人はどうなるというのだろう?」
 ということである。
 そうなると、
「新規で、生まれた人間」
 ということになるのではないだろうか?
 つまりは、死んだ人間のうち、人間に生まれ変われる人の数は絶対に減るわけである。しかし、新たに生まれてくるのでなければ、永遠に減り続け、
「絶滅を待つだけ」
 ということになってしまう。
 それを考えると、
「新規で生まれる人が、本来なら入るはずの身体に入れずに、新たに生まれたのだとすれば、減ることはないので、辻褄が合うだろう。
 しかし、自分だけが、前世がなかったということを知ってしまうと、生きている人間の中で、
「前世というもののせいで、争いが巻き起こる」
 ということで、それをまずいとするならば、
「それなら、前世があったという発想を人間に植え付けなければいい」
 という神様の思いから、
「こんな曖昧な、前世や夢という概念しか、人間は持つことができないようになってしまったのだ」
 ということにあるだろう。
 それを思うと、
「前世や夢、パラレルワールドや、マルチバースなどという曖昧なものは、どれか一つでもハッキリしたものがあると、せっかく合わせた辻褄が崩れてくる」
 ということで、
「曖昧なものは、曖昧に済ませる」
 という考えが世の中を支配していると感じさせることで、納得できるものがあるのではないかと感じさせるのであった。
「自然界の摂理」
 と同じ、循環を、果たして、無限という感覚と結びつけて考えていいものなのだろうか?
 なぜ、その時、みゆきがその部屋に入ってみようと思ったのか、自分でも分からっていないだろう。
 特に怖がりなところがあるみゆきだったので、普段なら入ることはしない。それなのに、真っ暗な下手の中に入るというのは、
「自分の性格を疑ってみてしまう」
 という気持ちにさせられるものであった。
 そういえば、その時に思い出したのは、田舎のおばあちゃんから昔聞かされた話だった。
 まるで、昭和の時代のドラマで、
「田舎の村」
 とでも紹介されそうなところが、いまだにあるようで、そこは、閉鎖的なところで、実際に都会に出るためのバスが、朝晩に、5往復だるだけで、昼間は、2時間に一度という提訴で、完全に車がないと、普通に生活できないようなところだった。
 おばあちゃんは、
「若い頃は、都会に出たこともあったけど、結局戻ってきて、見合いして結婚したんだけど、相手も同じ、都会からの出戻りで、当時の結婚というと、そういうのが多かった」
 ということであった。
 おばあちゃんが子供の頃の話だったというから、都会では、工業が発達したりして、田舎の方の安い土地で、ゴミ処理を作ったり、工業用品や、日常電化製品のいわゆる、スクラップの、
「一時置き場」
 のようなものがあったのだという。
 その置き場には、冷蔵庫などもあった。ただ、今の冷蔵庫のような大きな立派なものではなく、子供がやっと入れるくらいの小さなもので、かくれんぼをしていた子供が、そこに隠れていて、急に扉が閉まり、閉じ込められたのだという。
「その時、皆、その子がどこに行ったのか分からずに、皆が探していたが結局見つからず、最終的にどうしたのか分からないが、子供が衰弱した状態で、冷蔵庫から助けられたという」
 という話だった。
 助け出されたのも、どうしてそこにいるのが分かったのか、そこもハッキリとしないというのだ。
 その子は、まったく意識がなかったというのだが、どうも本人の話を聴いていると、夢を見ていたようで、その話を聴くと、明らかに、
「あの世の世界を見てきた」
 といってもいいような感じだった。
 あの世の世界というのは、誰が見たわけでもないのだが、どうやら、鎮守として祀られている氏神様の祠の中にある絵とそっくりの場所にいたのだという。
「昔の時代などを知っているわけではないのに、あれは、江戸時代の」
 などというのだ。
「江戸時代?」
 と聞くと、その子は、急に我に返って、
「えっ?」
 と聞き返す。
「おかしいな」
 と皆は感じているのだが、
「今江戸時代って言ったよね?」
 というので、
「江戸時代って何?」
 と聞き返した。
 すると、また少年が、口にしたのが、この村に伝わる、伝説と言われる版画師の人であった。
 それを指摘すると、また、とぼけられる。
 それを、そのうちに、
「誰も知るわけはない」
 と考えているのか、口調が、昔の人が、村人を説法しているかのようだったのだ。
「誰かが乗り移ったということかな?」
 と考えるのだが、子供を見る限り、そんな様子はまったくなく、ただ、疲れたのか、眠っているだけだったのだ。
「あの世の世界って何だろう?」
 と誰かが口にしたが、一斉に口をつぐんで、考えてしまうのだった。
「十万億土から、極楽浄土に続く道」
 であったり、逆に、
「地獄絵図」
 と呼ばれるものであったり、世の中の誰もが想像する、寝物語があるが、基本的には、誰かが想像したものを、子供の頃などの感受性がハンパではない時に見せられて、トラウマと化したことで、記憶の奥に残ってしまった場合のことをいうのであろう。
 だから、見たものすべてが、まるで絵の世界でしか表現できないから、もし、テレビのセットなどで、どんなにCGを駆使したものであっても、
「絵の世界以外は、すべてが贋者に見えてきて、リアルさがまったく湧いてこないのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 だが、そう考えると、時代劇などでも、同じように、リアルさが分からないとなると、どのようにして、視聴者に、リアルさを感じさせるかというと、考えられたのが、効果音ではないだろうか。
 刃の重なる音、火花が散るかのような演出が見えてくると、本当に斬られているわけでもないのに、苦しみながら倒れるだけで、リアルさが演出されているのだった。
「あの世の世界を、演出し、いかにリアルさを生み出すか?」
作品名:自殺後の世界 作家名:森本晃次