自殺後の世界
と想ったり、
怖い夢であれば、
「よかった。ちょうどいいところで眼が覚めてくれて」
と思いながらでも、そのトラウマからか、
「これ以上に怖い夢というものはない」
と、感じるようになったのだろう。
そんなことw考えていると、
「ひょっとすると、一度死んですぐに生まれ変わるということがあるのではないか?」
という発想であった。
これはいわゆる、
「死」
というものだろうか?
どちらかというと、
「幽体離脱」
に近いものである。
死んだと思っているのは、錯覚で、一旦肉体から離れ、死んでいる自分を見たことで、また元に戻り、目が覚めた瞬間に、その記憶が封印されるというものであれば、今度は、
「幽体離脱に何の意味があるというのか?」
ということである。
しかし、誰もが、大なり小なり、
「生まれ変わりたい」
という意識を持っていることだろう。
何が原因なのかということはハッキリとはしないが、
「死を迎える」
ということが、何かの人生の起点になるのだとすれば、
「一度死んで、すぐに生まれ変わる」
ということも、決して、考えられないことではない。生まれ変わったという意識を持つことは許されないので、その思いを感じないような暗示として、
「人間は、死んだらそのまま、死後の世界に行くものなのだ」
ということを、洗脳されているのではないかと感じるのだった。
もちろん、本当に死んでしまうことだってある。病気で死んだり、事故で死んだり、あるいは、殺されることもあれば、自分から死を選ぶこともある。
大往生以外は、
「寿命」
とは言えないところで、命を落としたということだろう。
宗教によっては、
「寿命をまっとうできなかった人は、人間に生まれ変われない」
などというのを聞いたこともあったが、それは、どこまでが本当だろう。そうなると、
「人間に生まれ変わるのは、奇跡に近い」
といってもいいだろう。
人間が人間に生まれ変われる確率と、人間が神になる確率とではどちらが大きいのか、それを考えると、皆、地獄行きということになる。そして、地獄に行くと、
「人間には生まれ変われない」
ということになるのだが、
「だったら、人間って、数百年もすると、一人のいなくなるかも知れない」
ということになるのだ。
だが、
「一人もいなくなるということはないだろう」
というのは、無限に時間が続いていく中で、人間が滅亡しないと考えると、世の中は終わってしまうのだ。
というのが、
「自然界の摂理」
というもので、
「皆が死んでしまい、人間がいなくなると、人間がいることで命を長らえていた生物が起き残れなくなり。その動物によって生きている生物も死滅することになる」
というのが、
「自然界の摂理」
というものである。
ということは、どの種族も、絶対に絶滅はありえないということになるのだ。
それをコントロールしているのが、神なのか、それとも、未知の生物なのか、それとも、まさかとは思うは人間なのか?
それを考えると、
「人間が眠っている夢の世界」
というのは、一種の、
「並行世界」
つまりは、
「パラレルワールド」
のようなもので、それが、
「種の保存を守っている」
と言えるのではないだろうか。
そう考えると、人間にあるのであれば、動物のしゅぞおくごとに、パラレルワールドが存在していると思うと、
「マルチバース理論」
も、ここで結びついてくるということになる。
つまり、
「世の中が無限である以上、パラレルワールドも、マルチバースもあり得るのだ」
ということになる。
「無限の証明は、種族の種類であったり、決して止まることのない、時間の流れであったりと、無限を表現するものは、果てしなくある」
それこそが、
「無限」
というものなのであろう。
そんな無限というものを考えていると
「そういえば、最近、同じようなことを考えた気がするな」
ということを思い出した。
あれは、確か自分の部屋で寝ている時だっただろうか? 久しぶりに、
「金縛り」
に遭って、目が覚めた時だった。
足が攣った状態で夢から覚めるというのは、今までになかったわけではない。むしろ、看護婦になりたての頃、いつも足が攣って痛かったのを思い出していたのだった。
足が攣る時というのは、
「普段から運動不足のくせに、急に運動してみたり、毎日緊張感で張り詰めた気分の時、夢の中で、ふと気を抜く時などに多い」
と考えている時だった。
だが、いつも、脚が攣って目を覚ました時、
「前にも、しかも、直近で、同じような思いをしたような気がする」
と感じるのだった。
しかし、目が覚めるにしたがって。
「同じ思いをまたするんだろうな」
と感じることもあり、この思いは、
「今に始まったことではない」
という、まるでデジャブのような感覚になるのだった。
将来と過去というものを、同じ感覚を味わっている時、感じるというのは、自分的に信じられることではなかった。
瞬間が違うといっても、まるで夢の中にいるのであれば、
「大きな一つの瞬間と感じるので、その思いが、錯覚ではないか?」
と感じるのだった。
実際に、
「過去と将来」
というものを結びつけるのは、現在でしかない。
しかし、瞬間というのは、必ず移動するものだ。そうでなければ、時間が動いていることにならないからだ。
未来が現代になって、過去になる。現代だけが自分で動くことができるもので、未来は現代になることを待っているだけで、過去は、現在がやってくるのを待っているだけだ。
ということになると、
「もし、寿命のように、明来に限界があるのであれば、未来というのは、確実に、減っているということになる。一つだけ言えるのは、過去だけは、絶対に増えるものだということになるのだろう」
と考える。
だが、これを、
「自然の摂理」
に似たものだと考えるとどうなるのだろう?
過去もある程度までいけば、リセットされて、未来に回っているのかも知れない。
ということになると。
「限界のある世界が存在し、そこの過去がリセットされて、未来にくっつくという考えを持っているとすれば、同じ世界で繰り返されるものなのか、それとも、別の世界で繰り返される。いわゆる、パラレルワールドのようなものがあって、それも一つではなく無限にあると考えれば、マルチバースになるのだ」
しかし、別の考えから、
「現代の時系列が無限にあるとするならば、マルチバースや、パラレルワールドの理屈は成立しない」
ということにもなるだろう。
それを考えると、
「並行世界」
や、
「無限の宇宙」
という考えが、
「無限の時間や時系列」
というものとでは、
「共存できるものではない」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、実に面白いのだが、そおカギを握っているのが、
「夢の中の世界だ」
と言えるのではないだろうか?
夢の中の、
「ドッペルゲンガー」
も、本当に死ぬことになるのだろうか?
というのも、これは他の人の考えであるが、
「夢というのは、死後の世界として見ているものではないのかな?」