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減算法の都合

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 と思ったからで、どんな時のパターンなのか、答えを聴いて判断するくらいはできると思ったので、そちらに入ったのだ。
 いわゆる、
「審査員側」
 ということであるが、パターンを頭の中で考えてみたりした。
 まず、考えたのが、
「リアルなのか、フィクションなのか?」
 ということであった。
 それによって、シチュエーションが変わってくる。まるで、
「小説のジャンル」
 によって、いかに変わってくるかということである。
 たとえば、リアルであれば、
「現代小説、エッセイ、随筆、日記、作文、歴史小説など」
 である。
 それらは、基本的に、事実に基づくことなので、死というものだけでなく、それをつかさどる話もすべて、同じでなければいけない」
 と言えるであろう。
 つまりは、
「死というもの以外のすべてが、リアルでないと、ノンフィクションの小説は成立しない」
 という考え方である。
 それに対して、諸説あるのも分かっている。
「何もすべてが真実である必要はない」
 と言われるであろうが、確かにリアルである必要はないかも知れないのだが、テーマである、
「死」
 というものを、最高の形でリアルにしないと、見ている人につたわらないということであれば、
「すべてにおいてのリアルさは、必要条件である」
 と言えるであろう、
 しかし、リアルさをどこまで求めるのかということを、死というものに置き換えるのであれば、リアルすぎると、今度は恐怖が表に出てしまって、本当のテーマがぼやけてしまうのではないかと思うのだ。
 確かに、小説において、少しでも、フィクションがあるのであれば、それは、
「フィクションなのではないだろうか?」
 と考えられる。
 この場合の配合率が、そのまま過半数をオーバーするかということで、単純に、
「リアルか、フィクションか?」
 ということを考えてはいけないような気がする。
「時と場合によるのだろうが、必ず、どっちかに寄ってしまわないと、リアルか、フィクションかということは、決められないのではないだろうか?」
 と、考えるのであった。
 そういう意味で、
「少しでも、フィクションがあれば、その小説は、フィクションなのだ」
 ということになると思うのだ。
 そういう意味で、
「フィクションであれば、死というものは、どのように描くのだろうか?」
 ノンフィクションは、そのまま、リアルと表現できるが、それだけに、前述のように、
「ウソは許されない」
 だから、まわりすべてを本当のことで固めないと、リアルなノンフィクションとは言えないということだった。
 じゃあ、フィクションの場合は、その、
「死」
 というものを、どのように考えているのだろうか?
 フィクションというと、いろいろなジャンルの話がある。
 SFであったり、ホラーであったり、ミステリーなどという、一般娯楽から、恋愛小説や、青春小説のようなもの。その中には、変質的な、今でいう、BL、GLものもあったりする。
 それらを、いかに、
「死というものに結びつけるか?」
 ということが難しかったりする。
 例えば、ミステリーであれば、
「殺人事件」
 として、死というものを、題材として、エンターテイメントな話を作りあげることができ、
「本来なら、死への冒涜と言われるようなことでも、面白おかしくトリックや、動機などの面で、人間性をテーマにすることもできる」
 SFであれば、その中で、タイムトラベルなどであれば、時間を飛び越えることで、自分だけが生き残った世界に行ってしまい、他に知ってる人が誰もいないという世界に行った時、真剣、生きていることに対して、疑念を抱くことになるだろう。
 さらにいえば、ロボットものであれば、それこそ、
「フランケンシュタイン症候群」
 のように、
「ロボットによって、人間が滅ぼされる」
 ということで、死というものが、立ち塞がってくるというものだ。
 恋愛ものなどになると、よくある設定として、
「余命数カ月」
 というものがある。
 不治の病に犯された若いカップルのうちのどちらかが、その葛藤に悩むというもので、ある意味、
「一番リアルに近い感情を表さなければいけない」
 ということで、一番難しいジャンルなのかも知れない。
 とにかく、フィクションであっても、どのジャンルのテーマであっても、やはり、
「死」
 というものは、
「とにかく難しい問題である」
 ということであろう。
 小説であっても、ドラマにする脚本であっても、
「死というテーマ」
 ほど、難しく、
「真摯に向き合わなければいけないテーマだ」
 と言えるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「死というものを通して、小説というものの、基本である、想像力というものを、いかに読者が養えるように描くか」
 ということが難しいのである。
 確かにノンフィクションも、
「ウソが許されない」
 という縛りはあるが、フィクションの場合は、中途半端に描いてしまうと、真剣に描いているつもりでも、そこか不真面目に見えてしまい、
「死を冒涜している」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「フィクションの方が、簡単そうに思うが、数倍難しいのではないだろうか?」
 ということが言えるのだろう。
 さて、今度は、
「死に方」
 という分け方になる。
 死に方というと、いろいろある。大きく分けると、二つに分かれるか? まずは、宇明をまっとうするという意味での、
「大往生」
 である。
 そして、もう一つの、大往生以外ということでも、二つに分かれる。一つは、人間の寿命というものを、神様が決めたのだとすれば、その寿命を自らの意思で終わらせてしまうという、
「自殺」
 というものがある。
 これは、いくつかの宗教での、
「禁止事項」
 となっていることが、多く、そして、またそれ以外ということになる。
 このように言ってくると、死というものは、まずは二つに分けて、そのうち一方が、
「その他」
 ということになるだろう。
 そして、その他と言われるその部分が、さらに二つに分けていく。
「何かと、それ以外」
 という分け方をすると、まるで、仕掛けとしての、
「マトリョシカ人形」
 のようになることで、
「面白い考えにあるんだろうな」
 ということが言えるのではないだろうか?
 と考えると、次は、
「大往生と、自殺以外の部分」
 であるが、そこに関して、また一つをピックアップすれば、
「本人の意思によらない、病気であったり不慮の事故」
 というものと、また、またそれ以外ということになる。
 逆にいえば、不慮という意味で、病気と、事故とは、ここでは同じ括りということになるだろう。
 ただ、同じ、不慮といってもいいかも知れないが、明らかに分けなければいけないということで、
「他人によって殺された」
 というのは、また発想が違ってくる死に方だとは言えないだろうか。
 それぞれの死に方を考えてみよう。
 まずは、
「大往生」
 であるが、これは、言わずと知れた、
「誰もが望む一番の死に方」
 と言えるだろう。
 この世に、
「不老不死」
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次