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減算法の都合

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 少なくとも、自分たちに危険が及ばないようにするくらいのことはあってもいいのだろうが、美人局の連中にそんな発想はない。
 もし、あるとすれば、
「必要以上に追い詰めると、自分たちが危ない」
 ということで、せめて一回にしておくだろう。
 また、その一回だけということであっても、その証拠のブツを、本人に返さなければ、本人は、
「証拠は握られたままだし、二度目は何も言ってこないし、大丈夫ということでいいのだろうか?」
 と次第に不安が募っていき、次第に、耐えられなくなると、相手に対しての殺意が燃え上がってきても、無理もないということである。
 結局、美人局たちは、
「いつ殺されるか分からない」
 という状況が変わるわけではない。
 美人局連中は、
「証拠がこっちにある限り、あいつに何もできない」
 と思っているのだろうが、それは、
「守るものがあって、金で何とかなる」
 という時だけである。
 守るものはあるが、金がない。それだけに、
「何とかしないといけない」
 と思っても、八方ふさがりである。
 追い詰められていることを感じ、
「死ぬしか、何とかなる方法はない」
 と考えたとすれば、
「あいつらを、道連れに」
 と思うのも、無理もないことである。
 そんなことを、
「美人局」
 の連中は、考えもしないだろう。
 つまり、脅迫する方は、
「これで作戦は大成功だ」
 と思っているが、
 今度は自分が、
「危険にさらされるかも知れない」
 ということを、まったく考えようともしないのだ。
 これは、
「やる方は、やられることを考えない」
 という意味での、一番愚かな照明かも知れない。
 いわゆる、
「本当のバカなのだ」
 ただ、もしこれが
「本当に、生活に困って、どうしようもなくなってやった」
 というのであれば、まだ救いようがある。
 しかし、そうであれば、もう少し、自分のまわりを見る目があるだろう。
「やる方は、やられることに気づかない」
 などということはないのではないだろうか?
 どうせ、
「遊ぶ金に困った」
 あるいは、
「暇なので」
 などという考えであれば、実に浅はかであるだけに。やられることをまったく考えないとしても、無理もないだろう。
 だから、そういう輩は、
「人類のために、殺されればいいんだ」
 と、100人が100人思うことだろう。
 こんな美人局の連中に、同情の余地などあるのだろうか?
 こんな、
「遊ぶ金欲しさ」
 あるいは、
「暇つぶし」
 などという考えで、人を騙すというのは、最低である。
 騙される方に、どれほどの油断や、後ろめたさがあったとしても、それ以下であるということはないだろう。
 人を殺す場合には、少なくとも、
「大義名分」
 と言えるだけの理由がある。
 それは、人を傷つける場合でも同じであろう。
 そういう意味でいけば、
「騙すのも同じであり、それを暇つぶしや小遣い稼ぎなどという理由は、あまりにも理不尽だというものだ」
 ということである。
 いくら、油断していたとしても、そんな連中に脅されて黙っている方が、本当はどうかしているのだ。
 そういう意味では、やつらが、
「やられる」
 というのは天罰であり、そんな連中に、天誅を加えるという意味で、
「金で雇われた」
 とはいえ、
「悪党退治」
 を行った連中は、ある意味、
「正義だ」
 といってもいいだろう。
「正義」
 というのが、おこがましければ、それこそ、
「必要悪だ」
 といってもいいのかも知れない。
 もちろん、
「底辺での争い」
 というのだろうが、雇われた連中と、美人局の間では、天と地ほどの差があるといってもいいだろう。
 美人局などのように。
「自分がすることを相手にされることに気づかないバカもいるだろうが、基本的には、自信家が多いというのも、やはり、詐欺集団に多いのかも知れない」
 というのを、これも、テレビ番組で感じてしまうのだ。
 彼は、名前を京極というのだが、それを感じたのは、あるドラマで見た主人公の名前も、
「京極」
 という名前だったことだった。
「なかなか珍しい名前だな」
 と感じた。
「しかし、京極という名前は、そんなに珍しい名前ではない。いわゆる名門の名前だぞ」
 と言われたことがあった。
 調べてみると、確かに、戦国大名にも、京極という人がいて、どうやら、室町幕府時代からの、名門でもあるようだった。
 しかも、ホラー作家の先生にも、
「京極」
 という苗字の人がいて、
 どうも、
「極」
 という文字がついていると余計なことを考えてしまうのか、
「極道の極」
 を感じてしまうのだ。
 しかし、前に感じた、
「美人局」
 においては、悪であったとしても、
「極道は、必要悪だ」
 と考えることで、それほど、極道を悪くは感じなくなっていた。
 彼らには、
「任侠」
 という考えがあり、
 そもそも、任侠とは、
「仁義を重んじ、自己を犠牲にしてでも、弱気を助ける」
 という精神から来ているものであった。
 だから、
「極道」
 というものは、本当であれば、弱者のために、盾になるくらいの心意気になるはずで、だから、
「必要悪」
 と言われるのではないだろうか。
 確かに弱い者を助けるために、自分たちの組織を存続させるという意味において、何かしらの悪いことをしていないとも限らない。
 そんな中において、
「極める」
 という言葉をどのように解釈するかということなのであろう。
 確かに、極端に、どちらかに寄ってしまうというのは、嫌われることになるのだろうか、
「何があっても、ブレない」
 という精神は、
「素晴らしいに値する」
 というものであるといえるであろう。
 そういう意味で、子供の頃は、あまり好きではなかった、この、
「京極」
 という苗字であるが、大人になってから、
「戦国時代の名門」
 というのもあって、嫌ということも、さほどなくなってきたのであった。
 これも、
「美人局の存在のおかげ」
 といってしまうと、理不尽で複雑な心境だが、それだけ、
「世の中には、何かを正当化するための、生贄のようなものが必要なのかも知れない」
 と思った。
「生贄」
 というには、あまりにも贔屓目であるが、それだけ、美人局というのが、クズということであり、
「救いようのないほどの存在なのか」
 ということなのであろう。

                 人が死ぬ時

 以前、大学の学園祭の余興で、面白いものをしていたことがあった。
「人が死ぬのが分かる時って、どういう時?」
 ということで、募集していたのだった。
 それは、もちろん、その時々で状況も、シチュエーションも違うので、複数回答である。
 確かに、複数回答でなければいけないだろう。
 まず、パターンの洗い出しをしなければならないだろう、こちらは、
「自分が答える方ではなく、答えを聴いて、正解かどうかの判断をし、そして、状況でパターンに当てはめる」
 という考えでいたのである。
 どうしてそう思ったのかというと、
「とてもじゃないけど、自分に、そんな発想はない」
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次