小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

減算法の都合

INDEX|5ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

 好きなものであればあるほど、飽きるという感覚に鈍くなっていて、気がついたら、
「もう見たくもない」
 という感覚になっているのではないだろうか?
 それを思うと。
「ああ、嫌だ」
 と感じるようになり、まわりが見ると、
「そんなのはわがままだ」
 というかも知れないが、そもそも、食べたくないものを、何を無理して食べなければいけないというのか?
 親世代、あるいは、もっと上の人たちは、
「昔は、貧乏で食べれなかった」
「戦時中だったので、モノがなくて」
 といって、
「嫌なものは食べない」
 という状態を、
「贅沢だ」
 と決めつけるようになっている。
 確かに、贅沢なのかも知れないが、それだけ、時代が違うということだ。
 今であれば、
「食いたくもないものを、無理にでも食わせよう」
 などとすれば、それこそ、パワハラで、コンプライアンス違反となるだろう。
 それだけ、時代が変わったといってもいい。
 さらに、そんな古い時代を知っている人も減ってきていることで、その言葉の説得力もない。
 だが、自分たちの世代の中には、
「忘れてはいけない」
 という、そういう気持ちもあるのも事実である。
 これは、何か遺伝子のようなもので繋がっているからなのか。それとも、言っていることが理不尽だとは思いながら、その時代を想像できないことで、余計にその時代を思うからなのか、自分でもうまく消化できていないような気がしているのだった。
 そんな時代のトリックの中で、よく用いられていたのが、
「警察が一度調べたところが、実は一番安全な隠し場所ではないか?」
 と言われることであった。
 そんな昔の探偵小説を、最近では、
「あれは、減算法なのか? 加算法なのか?」
 と考えるようになっていた。
 それは、意識してのことではないが、何か無意識のことのように思えるのだった。
 減算法というのは、
「最初が、100であり、そこから無運していたり、つじつまの合わないことなどを削っていって、最終的に完璧にしてしまうことで推理していく場合をいう」
 推理ではないが、以前言われたことで、将棋の好きな人から、
「将棋で、一番隙の無い布陣とは、どういうものか分かるか?」
 と聞かれたことがあった。
「いいえ」
 と答えると、その人は、まるで、鬼の首を取ったかのように嬉々として、
「それはね。最初に並べた形なのさ。あの形が完璧な布陣で、そこから一手差すごとに隙が生まれる。だから、後はお互いの個性によるオリジナルな戦法なのさ」
 というのであった。
「ああ、なるほど、減算方式か」
 と、そんな風に感じたものだった。
 そういえば、そうである。
「相手に少しでも隙がなければ、こっちだって動けないからな」
 と、当たり前のことを思うのだった。
 では加算法というのはどうであろう。
 加算法というのは、
「元々がゼロであり、そこから一つずつ積み重ねていく」
 というものである。
 いわゆる、
「ゼロからの出発」
 といってもいいのだろうが、そもそも、ゼロというものの考え方として、他の人と違う考えを持っていることで、加算法にも、少し納得する何かがほしいと思うようになっていたのだが、
「まず、ゼロというものの考え方」
 である。
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョーシカ人形」
 という考え方は、
「ゼロというものに、対していかなる考えを抱いているかということである。
 合わせ鏡というのは、
「自分の前後、あるいは、左右に鏡をおいて、その鏡を見ていくと、鏡に写った自分というものが、どんどん小さくなっていき、無限に続いているように見えるもの」
 である。
 無限ということであれば、
「どんなに小さくなっていても、ゼロになるということはない」
 ということであり、これは数学でも証明されている。
「ゼロ以外のものを、何で割っても、ゼロには、絶対にならない」
 ということで、どんなに小さくなったとしても、そこに存在しているものは、
「限りなくゼロに近い」
 ということで、
「ゼロとは、似て非なるものだ」
 ということになるのであろう。

                 美人局

「やる方は、自分がやられることを分かっていない」
 という発想は、どちらとも取れる。
「それだけ、自分の作戦に自信を持っているという、ある意味、自信過剰な人間の陥りそうなこと」
 あるいは、
「本当のバカなのか?」
 ということである。
 本当にバカなやつは、論外であるが、自信過剰な人間は、本当に軍師のように頭がいいということだけは間違いないが、その分、少しでも、調子に乗ってしまうと、自分がやられることを、分からないだろう。
 しかし、本当に自信過剰な人間は、武士などの昔の人間であれば、
「それはそれで、本望ではないだろうか?」
 と感じるかも知れない。
 自分の作戦に本当に自信を持っている人間は、ひょっとすると、
「自分の立てるような作戦で死ねるなら、それで本望だ」
 と思っているかも知れない。
 というのも、
「俺は軍師なんだ。普通の戦場で死にたくはない」
 と思っている人が、本当の軍師なのではないだろうか?
 罠に嵌って死ぬのであれば、相手の作戦が、そして頭脳が、自分よりも上回っているということなので、
「こんなすごい作戦を立てるやつに殺されるのなら本望」
 と感じるだろう。
 武士だって、
「戦場で、正々堂々と戦って、討ち死にするのが、本懐」
 と思っている人が多いのと同じである。
 もちろん、皆が皆、そうではないだろうし、
「死にたくなんかない」
 と思っているのも、当たり前のことであろう。
 それを思うと、
「平和な時代が一番いい」
 といってもいいだろう。
 ただ、平和な時代だからこそ、人を騙したり、脅したりする連中がいる。しかも、まるで詐欺同然に、
「人の弱みを握る」
 という、とんでもない連中である。
 自分たちでは、金儲けができないということでのそんな行為は、
「人間の風上にもおけない」
 といってもいいだろう。
 そんな中に。
「美人局」
 などというものがある。
 今でもあるのかどうか分からないが、逆に今の世の中だからこそ、いるのかも知れないと思うのだ。
 そもそも、
「美人局」
 というのは、一番多いパターンとして、女が、ターゲットにある男を色仕掛けで誘い掛け、その誘いに乗って、ホテルなどに。しけこんだりすると、そこに、いきなり男が現れて、
「俺の女に何しやがる」
 というわけだ。
 狙われるのが、芸能人などで、
「これから顔が売れるであろう人」
 あるいは、
「今すでに顔が売れている人」
 などが、そのターゲットなのだろうが、かつては、本当に引っかかったやつもいたのだろう。
 そうでもなければ、
「美人局」
 なとという言葉が生まれるわけもないし、社会問題にもならないだろう。
 よくドラマや映画にも出てきたりした。
 たいていの場合が、やっているのは、チンピラのようなやつで、本当の暴力団の人は、そんなことはしない。
 何と言っても、やり方がちんけなのだ。
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次