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減算法の都合

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 それが、昭和の、ほんわかとしたアニメや漫画で描かれているのだから、今から思えばとんでもない話である。
 ただ、だからと言って、
「今が一番正しい」
 と言い切れるかどうかは難しいところだ。
 今は、
「どうしてあんな時代があったんだ」
 と言われているかも知れないが、あれが当たり前であり。悲哀ではあるが、
「あれが正しい」
 と、誰もが思っていた時代だったのだろう。
 たぶん、何か問題が起こったから、社会問題になり、今のような、コンプライアンスに厳しい時代になったのだろう。
 例えば、警察の捜査においても、
「取り調べというと、今から思えば、拷問ではないかと思われるようなことを平気でやっていた」
 という時代だった。
 昔は、取調室を閉め切って、容疑者を白状させるために、電気スタンドを顔の近くにモテ行ったり、脅迫めいた罵詈雑言を浴びせたりと、確かに事件解決のために必要なことであろうし、
「凶悪な犯人を許せない」
 という思いに至るのは当たり前のことであろう。
 そんな、捜査をしていると、もし、その人が犯人ではなくとも、脅迫によって、白状させられ、冤罪の罪となったことが後から分かったり、弁護士の入れ知恵で、白状したふりをして、実際に裁判になった時、
「警察から、拷問を受けて、白状させられました」
 といって、警察の捜査のひどさを訴えることだってあるだろう。
 しかし、警察は、
「閉め切った密室で取り調べをしているのだから、被告の主張を否定できない」
 ということになる。
 警察側にも不利なので、取り調べは、
「部屋の扉を開けたまま行い、コンプライアンス違反がない」
 ということを、警察が示さなければいけなくなってきた。
 それよりも、やはり冤罪を生み出すというのは、一番まずいわけで、人の人生をメチャクチャにしておいて、警察も非難されるとなると、一番裁かれなければいけない犯人を野放しにして、
「警察は何をやっているんだ」
 と言われても、しょうがないということになるだろう。
 最近の刑事ドラマというと、そういうコンプライアンス関係のドラマが多かったりするのだ。
 もっとも、それ以降は、正直、刑事ものの番組を見ていない。
 自分が、見るなら、
「ほのぼのとした番組が気楽でいい」
 と思うからであり、実際に、テレビはついていても、
「何かをしながら」
 という、昔からいわれていた、
「ながら」
 ということになるであろう。
 それでも、最近のドラマには、何が面白いのか、刑事ドラマ系は、必ず数本は入っている。
 しかも、
「シーズン2」
 などという形で、前回クールの続編という形である。
 実際に、民放のドラマを見なくなると、衛星放送系の有料場組をどうしても見るようになる。
 ミステリーや、サスペンスの専門チャンネルというものも、いくつか存在し、日本のもの、海外のものと、ドラマや映画を流しているのだ。
 最近見ているのは、
「戦前、戦後の探偵小説ブーム」
 というものがあった時代。
 つまり、小説として、原作がある作品である。
 どうしても、社会派ミステリーと呼ばれた時代から新しいものは、前述の、
「人情派ドラマ」
 から、サスペンス系に続いていくもので、
「重たいものが嫌だ」
 と思っていると、昔のように、そんなカーアクションや、爆破のシーンなどという、映像的に衝撃のある作品は敬遠してしまう。
 しかし、昔の探偵小説の映像化は、正直、かなり衝撃的なものも多い。トリックを重んじる昔の作品などでは、結構、犯行現場というのは、ドロドロとしたシーンが多かったりする。
 しかし、そんなシーンでも、カーチェイスなどよりマシだと思うのは、
「自分の知らない時代背景がある」
 ということだからであろう。
「戦前、戦後の動乱の時代」
 というのは、それこそドラマなどでしかイメージができない。
 それを頭の中に持っておいて、先に原作を読む。
 そして、ドラマを見ることになるのだが、そのドラマというのは、
「相当、イメージと違う」
 と感じるからなのか、原作を読んでから、映像作品を見ると、
「あれ? 何かが違う」
 と感じ、がっかりさせられることがどうしてもあるのだ。
 以前、映画のキャッチコピーえ、
「読んでから見るか? 診てから読むか?」
 というものがあったが、まさにその通り。
 見てから読むと、それほど、悪い印象はないのだが、読んでから映像を見ると、そんな中には、
「見るんじゃなかった」
 と思えるほどのものも多々あるのだ。
 やはり、
「原作が一番」
 ということなのか、それとも、
「想像力が豊かになることで、読書が一番だ」
 という具体的な発想になるのかということであろう。
 そういう意味で、一度原作を以前に読んだことがあるかも知れないという程度の作品であれば、今になってみる昔の作品は、きっと新鮮なものとなることであろう。
 そんなドラマを見ていると、昔の探偵小説と言われていたものの種類が2種類であることに気づくだろう。
 一つは、時代背景が織りなすものというべきか、陰湿でドロドロとした作品が多い。
 例えば、SM系で会ったり、異常性癖、近親相姦などというものから生まれる、ドロドロした人間関係が、犯罪というものを生むという作品である。
 そこにトリックなどもあるのだろうが、あくまでも、
「変質的なことがテーマ」
 となった作品で、中には、
「美というものが、一番尊い」
 と言われる、
「耽美主義」
 なる作品もあったりした。
 いわゆる、
「変格探偵小説」
 と言われるものである。
 もう一つは、ストーリー性や背景に奇抜さはないが、ただでさえ時代背景が、そのまま描くことで、カオスな状態なので、それよりも、トリックなどを重視した。本来の、
「探偵が謎解きを行う」
 という、オーソドックスな探偵小説、いわゆる、
「本格派探偵小説」
 と呼ばれるものである。
 これらの作品は、
「衝撃的な映像」
 という意味では、一番なのかも知れないが、正直、この時代というものを、知らない。肌で感じたこともないわけなので、それこそ、世界が、
「架空の世界」
 といってもいいだろう。
 そもそもが、架空と言われる、フィクションではないか。
 だから、これらの小説を読んでいて、
「どうせ架空なのだ」
 ということで、映像作品を見ていても、そこまで衝撃的に感じなかった。
「元々が、かつて原作を読んでいる」
 という意識があり。
「原作を読んでいるのだから、それほどの衝撃はない」
 ということで、ながらであっても、十分なのだと感じるのだろう。
 そう思うと、昔の小説を、原作でも、ドラマでも、
「何度見ていても飽きない」
 と感じさせるまでになるのだった。
 食べ物などは、最近、飽きっぽくなってきた。
 二十歳未満の頃までは、
「好きなメニューであれば、半年でも一年でも飽きることはなかった」
 といってもいいほどだったが、ある一定の年齢に達すると、
「一週間も続けると、見るのも嫌なくらいになる」
 というのだった。
 なぜなのか?
 と考えてみたが、どうやら、一度、本当に飽きるところまで食べてしまったのであろう。
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次