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減算法の都合

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「だったら、核戦争のような愚かなことを起こさないような、警鐘のための映画なのではないか?」
 ということであれば、この映画のテーマも分かってくるというものだ。
 しかし、人間というものは、そんな製作者側のことよりも、まずは、自分に照らし合わせて見るものだ。
 それを考えれば、この話を自分目線で見れば、まず考えることとして。
「自分だったら、こんな恐ろしい世界でも、生きていたいと思うだろうか?」
 ということであった。
 なるほど、出てきた連中は、皆生きるということに必死になっていて、余計なことは考えていないようだ。
 しかし、これは、
「平和ボケ」
 をしている日本人だから感じるのかも知れないが、
「あんな恐ろしい世界になって、いつ殺されるか分からないような、そんな恐ろしいモラルも何もない世界で生きていくくらいだったら、皆と一緒に、世界最後の日を迎えればよかった」
 と思うことだろう。
 話は違うが、浦島太郎の話を思い出すのだが、あの話は、(伝わっている話として)ラストでは、竜宮城から戻った浦島太郎は、その世界が、自分の知っている人の誰もいない700年後の世界だということで、大きなショックを受けるではないか。そして、ショックのあまり、竜宮城からもらってきた玉手箱を開けて、お爺さんになったという話だったではないか。
 確かにショックだろう。それまで竜宮城で、3日だったか、まるで、
「この世の春」
 を満喫した人間が、元の世界に戻ると、別世界だったわけなので、この、
「天と地ほどの差」
 には、まるで、
「奈落の底に叩き落された」
 というような意識が働いたに違いない。
 それを思うと、明らかに、浦島太郎は、
「生きる気力を失った」
 ということであろう。
「地球最後の日」
 という話でも、シェルターで生きながられたとしても、結局、
「ラストシーンでの浦島太郎の心境」
 になるのではないだろうか?
 「シェルターからはいつ出れるか分からない」
 なぜなら、地表をまだ放射能が覆っているからであり、地表に出たとしても、そこに広がっているのは
「地獄絵図」
 でしかないのだ。
 自分が知っている人は誰もいない。
 自分の知っている人だけではなく、生存者などいるわけはないのだ。いたとすれば、突然変異をした、
「人間ではない人間」
 ということになるだろう。
 当然、食料のない。何しろ、しぇるーには人間と、一定の期間の食料しかないわけである。
「食料が尽きれば、皆飢え死にしてしまう」
 のは明らかだ。
 何か食物になるものは、地表にしかなかったのだ。動物も植物も地表にあったものは皆死滅しているだろう。それこそ突然変異は別だが。しかし、その突然変異を食べれるかどうかも分からない。下手をすれば、食べられるのは、人間の方なのかも知れない。
 要するに、自然界の摂理は完全に崩壊しているのだ。そもそも、自然界などというものは、もう存在しない。それもこれも、人間というものが、自分というものの保身に走るためには、
「何をしてもいい」
 という考えが根底にあるから、このような惨劇が起こってしまったということである。
 こうなってしまった以上、
「誰が悪い」
 というのは滑稽な話で、生き残った連中は、それこそ、生きるために、明日をも知れぬ世の中に身を置くことになる。
「あのまま死んでいた方が幸せだった」
 という発想も当然のことであり、誰も、そのことに答えを出してくれる人はいないだろう。
 何しろ、
「答えなどない」
 ということになるのだろうから……。
「実際に、あの場にいたら、どんな気持ちになるだろう_」
 ひょっとすると、
「生きててよかった」
 と思うかも知れないが、正直、想像を絶するような光景を目の当たりにすれば、間違いなく、
「死んだ方がよかった」
 と思うのではないかと感じるのだ。
 というのも、
「生きていくには、何かの目的がなければ、生きていけないのではないか?」
 と感じるからだ。
「生きたい」
 と単純に思うことももちろんのことだが、それ以外に、
「生きる価値」
 のようなものがあってしかるべきではないだろうか?
 生きるということはそういうことであり、何か意味がなければ、なかなか継続する気分にはなれないだろう。
 そう、
「生きていく目標」
 というものには、
「継続性」
 というものが必要なのだ。
「一日でも生きられればそれでいい」
 という感情を持つ人はまずいないだろう。
 平和な時代であれば、
「生きることは当たり前だ」
 ということになるのだろうが、そんな時代であればこそ、
「生きていく意義」
 というものが、ハッキリしていないと、生きることはできないのではないかと思う。
 ほとんどの人は、
「それを、無意識に持っている」
 ということではないだろうか?
 その目標は、
「受験に合格する」
「何かの資格を取る」
「選手権で優勝する」
 などいろいろであるが、一つ言えることは、
「達成することが問題ではない」
 ということだ。
 達成できなくても、目標があれば、次を目指すことができる」
 ということだ。
 受験などで、一度失敗したことで、自殺を考えてしまうという人もいるだろうが、
「また、一から目指せばいい」
 と思う人もいる。
 だからと言って、死んでしまった人を、
「意思が弱い」
 と果たして言い切れるだろうか?
 そのあたりの問題もあるのだろうが、ただ、言えることとしては、
「目標目指して頑張る」
 ということが、生きる支えであり、目標となるのだ。
 ある意味、目標を達成することよりも、目指す方が、大変で難しいことなのかも知れない。
 なぜなら、そこには、
「継続」
 という問題が絡んでくるからだ。
 継続を意識してできるのは人間だけである。そういう意味で、難しくもあるし、
「人間だけに与えられた特権」
 ともいえるであろう。
 そういう意味で、
「継続は力なり」
 とはよく言ったもの。
 モットーにしている人が多いのもうなずけるというものだ。
 そんな、
「継続」
 であるが、世の中には、
「家を守る」
 という風習が、昔から、当たり前のようにして存続してきた、
 これも、一種の、
「継続」
 ということなのだろうが、継続することの意義を知らなければ、たぶん、
「家を守る」
 と言われてもピンとこないだろう。
 過去の歴史を考えても、
「お家断絶」
 あるいは、
「改易」
 などということで、自他に関わらずの理由で、継続できなくなることが、大いにあるというものだ。
 だが、今の時代は、核家族化が進んだことで、
「核家族が当たり前だ」
 ということになっている。
 世界的にも長寿番組で知られるアニメは、大家族を想定した話となっていて、今の時代には考えられない状態である。
 その理由は様々考えられるが、一番大きな理由として考えられるのは、2つではないだろうか?
 一つは、
「会社などの事情でやむを得ない」
 というものだ。
 サラリーマンなどになり、全国展開している会社に就職すると、転勤は、当たり前のようにあり、
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次