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減算法の都合

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「ソドムとゴモラ」
 と、
「ノアの箱舟」
 を合わせたお話が、よくある、
「世界最後の日」
 せあったり、
「世紀末伝説」
 のようなものだったりする、
 たぶん、前述の、
「ソドムの村」
 を襲った、
「硫黄の火」
 というのは、いわゆる、
「核爆発ではなかっただろうか?」
 ということである。
 過去の、しかも、古代に、起こった核爆発のようなものは、
「ひょっとすると、巨大隕石が地球に激突したのではないか?」
 ともいわれているが、大洪水であったり、巨大隕石の衝突であったとしても、そんな伝説が蔓延っていた時代だったのかも知れないということを考えると、
「古代にも、それなりに、世界最終という考えがある程度根差したものとなっていたのかも知れない」
 と思えるのだ。
「地球の破滅は、近々迫っているかも知れない。それを、神のせいだ」
 ということにすることで。どういう意味があるというのだろうか?
 そもそも、このような伝説を文字として残そうという考えだったのだろうか?
 今の人間であれば、少なくとも、自分が生きているこの時代のこと以外を考えることはないだろう。
 何かを書き残している人、古代から、膨大な歴史書なるものがあるが、それが、本当に、未来の人間に対して、警鐘として残しているのかは分からない。
 確かに、自分のところの家系に対しては、
「ご先祖様が書き残した」
 ということで伝わっているものが多いし、
「子々孫々に至るまで」
 という言葉がハッキリと書かれているものもあるだろう。
 つまりは、歴史書が、本当に未来の人間のために書き残されたものなのかどうかということによって、その信憑性は変わってくるというものだろう。
 昔の人が未来の人に対してどのような思いを持っていたのかというのは、難しいところである。
 現代だってそうではないか。
 今の時代は、
「少子高齢化」
「地球温暖化」
 などと、無視できない大きな問題があるが、果たして、
「どこまで未来の人間のために」
 ということを、どれだけの人間が考えているか? などということは、実にあやふやである。
 普通であれば、
「死んでしまえば、後のことは知らない」
 せめて、自分の子供の世代まではということは思っても、それ以上のことは考えないであろう。
 何といっても、確かに自分たちの生活が豊かになるために、地球環境を破壊してきたといっても、
「そんなの、皆でやったことで、俺だけのせいじゃない」
 と思うと、自分だけが、未来のために、いくら努力をしても、他の人がしなければ、すぐにバカバカしくなって、何もしなくなることだろう。それがいわゆる、
「集団意識」
 であって、そのことが、自分だけの問題ではないのに、誰も真剣に考えていないということが分かると、
「俺だけがんばったって」
 ということになるのだ。皆が皆それに近い性格なのだから、どうしようもないのも当然というものだ。
 それでも、何とかしようというポーズをとるのが政治家くらいだろう。
 だが、政治家というものほど、一番あてにならないものはない。
「考えていることは、自分の保身と出世のことばかり」
 大げさでも何でもないことである。
 出世と、欲のために賄賂を貰って、それがバレた時、国会答弁では、
「記憶にございません」
 という言葉を果てしなく繰り返すだけである。
 そういえば、許されるわけでもないのに、そればかりを連呼して、相手が、作戦を変更するまでそれを言い続けるのだ。実に都合のいい言葉である。
 さらに、
「自分が悪いことをしているのであれば、総理大臣ところか、国会議員も辞める」
 と言った、元ソーリがいたが、結局、そいつのせいで、責任を取って、自殺をさせられた人がいたではないか。
 何の責任なのか分からないが、自殺をさせられた人はたまったものではない。
 奥さんが、
「ハッキリさせろ」
 ということで裁判を起こしたが、結局、訴えられた方は、
「すでに、事件は解決済み」
 として処理された。
 しかも、
「そのことをハッキリさせる」
 といって、総裁選に勝利し、総理大臣となった、今のソーリも、結局、その元ソーリに、
「首相にしてもらった」
 という恩義があるからなのか、
「公約だった。この疑惑を晴らす」
 ということを一切やらずに、この元ソーリの、犬になってしまったのだった。
「しょせん、政治家というのは、そういう連中ばかりで、自分のことしか考えていない」
 といっても過言ではないだろう。
 それを考えると、
「日本の政治家なんて、あてにならない」
 と思うのは当たり前だろう。
 かといって、世界の政治家がいい人ばかりかというとそうでもない。結局。
「どこに行っても、政治家というのは、同じ人種だ」
 ということであろう。
 それで世界がよくなるわけはない。どんどん危険な方に足を踏み入れている。しかも、科学は発展し、下手をすれば、
「一発で、地球を吹っ飛ばすくらいの兵器を、どこの国も持っているかも知れない」
 ということなのであろう。
 だから、あの物語の、
「核爆発によって、地球が滅亡する」
 という話も、まんざらでもなく。そこで思い出されるのが、
「ソドムとゴモラ」
 あるいは、
「ノアの箱舟の話」
 であり。結果、
「人類は生き残ることができる」
 ということであった。
 地球上において、
「生き残った人類がサバイバル生活を行いながら、逞しく生きていく」
 という話なのであるが、実際に、どこが、
「心を打つのか?」
 ということが正直分からなかった。
「サバイバルサスペンスモノ」
 ということで、あくまでも、生き残りに対して、格好のいい主人公が戦う姿を描いた作品なのか、
「人類が逞しく生きていく」
 ということをテーマにした作品なのかが分からなければ、読んでいても、見ていても、その楽しみは分からないだろう。そういう意味で、京極はこの話を、楽しい、面白いと思って見たことはなかったのだ。
 そんな、
「世界最後の日」
 と呼ばれるような、小説やドラマでは、その後、人類は直面するのは、
「核兵器の突然変異」
 というもので巨大化した生物だった。
 人間が、生き残れたのは、いうまでもなく、
「核シェルター」
 というものを使うことで、地表が破壊されても、地底は大丈夫だということで生き残った人たちだ。
 地表は、当然生きのこった人はいないだろう。核爆発で生き残れたとしても、その後に蔓延する放射能の中で、人間は生き残れるわけはないのだ。
 さらに、生き残れたとしても、食料がない。おそらく、まともな水もないだろう。さらには、前述の、突然変異をした動物に襲われてしまうかも知れない。
 いや、人間自体が、突然変異で、巨大化してしまうかも知れないではないか?
 と考えると、京橋は、一つ不思議なことを考えた。
 というのは、
「突然変異ものをすると、なぜ、巨大化しか発想が行かないのだろう?」
 ということであった。
 突然変異で、小さくなるということはありえないのだろうか?
 という発想なのだが、これはあくまでも、想像であるが、
「ドラマを面白く演出するには、大きくするしかない」
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次