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減算法の都合

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 選挙の中には、決選投票系というものもあり、得票数が、上位2位に入ったものだけで、再度、決選投票というものを行い、そこで、得票数の多いものを、優勝とする。ということになる。
 つまりは、決選投票で多い得票ということは、名実ともに、
「過半数以上ということになるので、文句なしだ」
 ということである。
 さらに、資本主義においては、基本的に自由競争である。政府が介入することもないし、国営で、政府が独占するということもほとんどない。考え方としては、公平で、公正なやり方であることから、
「これほどいい体制はない」
 と思えるだろう。
 しかし、実際にやってみると、そんないいことばかりではないのだ。
 何といっても、一番の問題は、
「自由競争であるがゆえに、格差が表れてくる」
 つまりは、
「貧富の差が出てくる」
 ということであった。
 さらに、多数決ということは、少数派意見は、どんなに素晴らしい意見であっても、まったく取り上げられないということであり、
「敗者に、光は一切当たらない」
 ということである。
 貧富の差が激しくなり、自由競争であるということは、
「強者はいくらでも強くなる」
 ということでもあり、そうなると、一部の特権階級だけが、得をするということになるのだ。
 プロ野球界において、ドラフト会議が始まったのも、発想としては似ている。
 元々は選手獲得は自由競争であり、金のあるスポンサーを持った球団は、アマチュア選手を、
「金にものを言わせて獲得に走る」
 ということになる。
 選手は当然、金が欲しくて、金のある球団に、実力のある有名選手が集まると、必然的にそのチームは強くなり、人気も出るから、さらに金持ちになる。アマチュア選手もそんな球団に入りたいのは当たり前で、結局、実力のある選手をすべて、人気や金のある球団に持っていかれるということで、どんどん、チームのレベルが開くことになるのだ。
「強いチームはどんどん強く、弱いチームには、選手が来ない」
 というのが理由であった。
 しかし、それは、一種の、
「建前の理由」
 だったのだ。
 本当の理由は、もう一つにあった。
 というのは、その問題が深刻化すると、球団経営が先ゆかなくなる。
 という問題だったのだ。
 どういうことなのかというと、
「有名球団が、金に糸目をつけずに、有名選手の獲得に走る。すると、他のチームも何とか対抗して、出せるだけの金を提示して、有名選手の獲得に走る。すると、どんどん契約金や、選手の年棒の相場が、どんどん跳ね上がっていく」
 ということになるのだ。
 これは、球団経営に関して、当然のことながら、
「困窮してくる」
 ということになる。
 だから、選手と球団が、自由に契約できず、前年の順位によって、選手の選択指名権を、なるべく公平に得ることができるというもので、その球団から指名された選手は、他の球団と、勝手に交渉ができないという考えであった。
 これは、あくまでも、球団側の経営という観点から始まったものだが、そのいいわけに、いわゆる、
「貧富の差をなくす」
 ということであったのだ。
 だが、このドラフト会議制というものは、選手側にとって、一切のメリットはない。デメリットでしかないのだ。
 というのは、選手側に、
「入りたい球団の選択がまったく許されない」
 ということでもある。
 勝手に、会議によって決まった球団とした交渉ができないというのは、正直、選手にとっては、あまりいいことではない。
 一般の学生の就職活動は、
「募集しているところを、いくらでも受けることができる」
 ということに対し、指名してきた球団に入団しなければ、
「一年間は、プロ野球選手としてプレイすることができない」
 ということである。
 まぁ、一般学生たちから見れば、
「ほしい」
 といってくれる企業があるだけマシではないか?
 と、思うかも知れないが、そもそも、大学を首席クラスで卒業した学生であれば、遊泳企業から引っ張りだこということを考えれば、プロ球団から、指名を受けるということは、それだけの器ということなのだから、本来のドラフトなどがなければ、複数の球団から、誘いがかかって当たり前であろう。
 それを思うと、ドラフト制度というのが、どれほど買い手市場なのかというのか、売り手側には、まったくのメリットも自由もない、
「これで、民主主義と言えるのだろうか?」
 ということである。
 実は、この、
「ドラフト会議」
 というものの考え方と、
「社会主義」
 あるいは、
「共産主義」
 と呼ばれるものと同じではないかと言えるのではないだろうか?
 つまり、
「社会主義というのは、民主主義の限界に挑戦する形で考えられた新しい主義の考え方である」
 ということだ。
 自由競争の多数決によって生じるのが、
「貧富の差」
 であったり、
「一部の特権階級だけが暴利をむさぼる」
 という、いかにも今の日本を象徴している状態だった。
 そこで、考えられたのが、
「自由競争をやめて、すべてを国営化にし、給料もすべて均等にし、国家が計画したことに対して、国民が皆、競争ではなく、その歯車に乗っかることで、貧富の差はなくなるし、特権階級による暴利をむさぼるということもなくなる」
 という考えであった。
 考えは悪くないのだが、そのせいで、問題となるのが、
「自由がまったくない」
 ということであり。
「すべて、国家に操られる」
 ということ、そしてそこから派生してきた問題は、
「発展性がまったくない」
 ということだ。
 それはそうだろう。国家によって、雁字搦めの競争のない世界だ。中には、
「一生懸命にやっても、給料が上がるわけではない」
 ということで、誰もが適当にするようになり、いい加減なものができたり、新しいものが生まれるという地盤がまったくない世界となるのだ。
 それが、共産主義の一番の欠点であった。
 さらに、
「すべてを国が管理する」
 ということだから、すべては、国に委ねられるということであり、そもそも、国民には自由はない、
「自由と引き換えに、貧富の差をなくし、特権階級の人だけが暴利をむさぼらないようにする」
 というのが、社会主義ではないか。
 それに、
「多数決ではないとすれば、決定はどのようにするのか?」
 ということであるが、これも、最初から決まっている。
 それが国家であり、国家元首の考え方になるのだ。
 こんな二つの、
「まったく正反対の陣営が、世界の派遣を争っている」
 というのだから、一歩間違えれば、世界を滅ぼすことになりかねないというのも当たり前のことであった。
 どちらの陣営も、
「直接対決になると、世界の滅亡に繋がる」
 ということは分かっているのだ。
 というのも、しばらくの間、
「核の抑止力」
 というものに、両陣営は、頭が凝り固まっていて、
「核開発競争」
 が続いていた。
 これは、
「お互いに相手を滅亡させるだけの兵器を持っているのだから、どちらが使っても、結果としては、どちらの国も終わりだということであった。
 先にこちらが打ち上げれば、相手も、ミサイルが相手に届く前に、相手も打つからである。
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次